国際芸術祭「あいち2025」企画概要

灰と薔薇のあいまに

枯れ木に花は咲くのか
灰と薔薇の間の時が来る
すべてが消え去り
すべてが再び始まるときに※1

モダニズムの詩人アドニスは、1967年の第3次中東戦争の後、アラブ世界を覆う灰の圧倒的な存在に疑問を投げかけ、自身を取り巻く環境破壊を嘆きました。アドニスの詩において、灰は自然分解の結果生じるものではなく、人間の活動による産物、つまり無分別な暴力、戦争、殺戮の結果なのです。環境に刻まれた痕跡を通して戦争を視覚化することで、アドニスは、直接的な因果関係や現代的な領土主義の理解ではなく、地質学的かつ永続的な時間軸を通して戦争の遺産を物語ります。したがって、アドニスにとってそれはただ暗いばかりではありません。消滅の後には開花が続くからです。

この感情は、再生と復活のためには必ず破壊と死が先行するということ、そして人類の繁栄のためには、恐怖を耐え忍びながらその道を歩まなければならないという、一般的な心理的概念を表しています。アドニスは、希望と絶望の感情と闘いながら、新たな未来、現在と過去に結びつく恐怖から解放された未来を思い描きます。戦争を国家、民族、部族、人間中心的なものよりも、集合体としての環境という視点から理解しようとすることで、アドニスは戦争の多様な顔を強調します。すなわち、人類が引き起こした戦争、地球に対する戦争、私たち自身の内なる戦争、他者との戦争、ヒエラルキー・服従・抑圧・飢饉・飢餓・搾取をめぐる象徴としての戦争、資源とエネルギーをめぐる戦争、所有権や著作権をめぐる戦争、希望・夢・想像力をかけた戦争などです。

観察者、目撃者として戦争と破壊を経験したアドニスがこの詩を書いた政治的背景は、私たちの現在の経験にも根差しており、この芸術祭ではそれをさらに拡張しています。「灰と薔薇のあいまに」というテーマにおいて、私は人間が作り出した環境の複雑に絡み合った関係を考えるために、灰か薔薇かの極端な二項対立も、両者の間の究極の境界線も選ばないことにしました。むしろ、啓蒙思想の知識文化から受け継がれた両者の境に疑問を投げかけ、人間と環境が交わる状態、条件、度合いを想定します。今回の芸術祭では、戦争と希望という両極のいずれでもなく、その間にある私たちの環境の極端な状態を受け止めながら、人間と環境の間にあると思われている双方向の道を解体する可能性を探ります。

「灰と薔薇のあいまに」において、私は、人間と自然の関係についての規範的な枠組みとは異なる問いを投げかけます。すなわち、人間が自然を変質させているのでしょうか、それとも自然が人間を変質させているのでしょうか。人間とは単なる生体物質なのでしょうか。内面的で心理的な人間と、外面的で植物的な世界との間に明確な区別はあるのでしょうか。人間と環境の現代的な関係に取り組むとき、人新世から資本新世、プランテーション新世、クトゥルー新世※2といった規範的な概念を受け入れ、批判するしか方法はないのでしょうか。芸術作品や展覧会制作は、未知の場所としての環境にアプローチし、新たな物語を発掘し、別の視点を見つけることができるのでしょうか。

第6回となる国際芸術祭「あいち2025」では、人間と環境の関係を見つめ、これまでとは別の、その土地に根差した固有の組み合わせを掘り起こしたいと考えました。農業が機械化され領土が金融化される以前には、世界の至るところで共同体が自然を管理し、環境景観との相互関係を発展させていました。そうした共同体は、自然の権利や保護を意識し、それを取り巻く動植物の生息地との間に親近感を感じて、互いに信頼し、育み、補い合う道を築いていました。この芸術祭では、そのような枠組みを現代的な芸術実践の一部として歓迎します。

このキュレトリアルなアプローチは、人間の痕跡が刻まれた複合体としての環境という現代的な想像力とは異なる、環境と共にある想像力の上に成り立っており、またそれを育むものでもあります。農業、化石燃料の採掘、深海採掘、資源の略奪、原料となる天然資源の開発といった活動が、帝国主義的な構造から受け継がれた成長中心の考え方と同様に、人間が環境に対して絶えずダメージを与えるシステムを構築し、また人間が環境に依存する危険な構造を発展させてきたことは、周知のとおりです。加えて、環境に関する私たちの知識は人間中心的であり、自分たちの利益のために環境を変質・改造することができる存在として、人間を人間以外の生命体よりも優位に置いています。

人間は、原材料を収奪できる空間へと環境を均す専門技術を持ったエンジニアであるだけでなく、人類の間に存在する不平等を再強化してもいます。今日私たちが占有している環境は、ある共同体が他の共同体よりも恩恵を受け、その生活の質が高まるように、異質化され、細分化され、分類され、モデル化されています。現在のグリーンエネルギー化の言説もまた、片方の半球にいる人々のためのものであり、他方で環境回復のために欠かせない方策の恩恵を受けることのできない共同体が、世界中至るところに存在しているように思われます。このように、今日の人間と環境にまつわる実践の多くは、人種、社会、差別についての知識や考え方を何度も繰り返しているのです。

この結果、地球上の多くの地域が、何世紀にもわたって資源を採掘してきた植民地帝国の名残を生き、多国籍の食料・エネルギー・農業企業によって身動きが取れない現状に直面しています。こうした共同体の多くは、西側世界の植民地の遺産が作り出した人間と環境の関係から不当に大きな影響を受けており、そのような現在の都市と市民の構造は、私たちが今目にしている地球規模の変化の不可避的な原因となっているのです。そうした変化は、絶え間なく続く先住民族の大量虐殺と領土の略奪、植民地化された領土での数十年にわたる核実験、そして生活環境の壊滅的な喪失と人々の屈辱をもたらした、プランテーションや鉱山での強制労働の暴力とトラウマといった遺産の上に存在しています。このことは、私たちの寿命よりも長いスパンで感じられるようなかたちでこの惑星の地質を変え、そして今もなお変え続けており、人類そのものの生存に深刻な影響を及ぼしています。

今回の芸術祭では、現在の人間と環境の関係に関する一筋縄ではいかない物語や研究を念頭に置きながらも、私たちが直面している極端な終末論も楽観論も中心としないことを目指しています。私は、環境正義※3に関する対話に複雑さを重ねることによってのみ、私たちが自らの責任に向き合い、その不正義への加担に気づくことができるのだと考えています。ヒエラルキーの押しつけや偏った読み方を避けるために、世界中からアーティストやコレクティブを招き、私たちが生きる環境について既に語られている、そしてまだ見ぬ物語を表現するのです。アドニスが想像したように、試練を乗り越えて死や破壊に耐えるからこそ自然は回復力を持つのでしょうか。それとも、生命を奪われ機械化された空疎な気候フィクション※4が表現するディストピア的で黙示録的な未来像が、今まさに私たちが生きる現実なのでしょうか。

愛知県に根差した今回の芸術祭には、灰と薔薇の間にある日本独自の環境に対する想像力も組み込まれます。愛知県は陶磁製品の産地として、瀬戸市は「せともの」の生産地として知られています。周囲の環境から得た素材や資源を用いるこれらの地場産業は、アーティストたちの新作の中にも立ち現れてくるでしょう。こうした産業は、地域の誇りの源であり、人間と環境の関係についての新たなモデルを模索する本芸術祭の支柱となります。たとえばこの地では、歴史的な写真や資料で目にする陶磁製品の生産によって作り出された灰のような黒い空は、環境の汚染や破壊よりも、むしろ繁栄を意味していました。このように普遍主義的な人新世という人間中心の批評の視点から脱却する時、技術、地域に根差した知識、帝国の歴史、環境に対する想像力について、どのような思考が浮かび上がってくるのでしょうか。地場産業や地域遺産は、人間と環境の複雑に絡み合った関係について、新たな、幅を持った思考への道を開くのでしょうか。

今回の芸術祭ではさらに、手塚治虫の『来るべき世界』を始め、日本の大衆文化、小説、映画、音楽のさまざまなシーンや事例もまた参照します。手塚の物語では、アメリカ合衆国とソビエト連邦になぞらえた国同士の緊迫した関係が原爆の開発競争──それは日本の現代化と環境の状態に深く絡んだ歴史でもあります──を招き、偶然にも「フウムーン」と呼ばれる突然変異の動物種を生み出してしまいます。フウムーンは人間を超える能力と知性を持ち、多くの動物と少数の人々を地球から避難させる作戦を考えます。自然と人間の副産物であるフウムーンが、窮地を救うためにやって来るわけです。

『来るべき世界』は、今回の芸術祭のテーマとアドニスの詩に共鳴しつつ、終末と開花の間を横断します。愛知県という地域性、アドニスや手塚といった作家への参照、そして参加アーティストたちが共に示すのは、「灰と薔薇のあいまに」を掲げるこの芸術祭が、幅を持った考え方、有限なもの、そして中間にある状態を採り入れることによって、当然視されてきた位置づけやヒエラルキーを解きほぐせるということなのです。

国際芸術祭「あいち2025」芸術監督フール・アル・カシミ
  • ※1Adonis, “An Introduction to the History of the Petty Kings,” A Time Between Ashes and Roses, 1970.
  • ※2人新世とは、人類が地球の環境を激変させた近現代を、地質年代として指す言葉。それに対し、深刻な環境破壊を招いたのは人類全体ではなく資本主義やプランテーション化を伴う植民地主義だとする立場(資本新世、プランテーション新世)や、そもそも人類を中心に据えずに、あらゆる種類の生物や非生物から精霊や神話の登場人物までが、堆肥のように共に混じりながら「地下世界に(chthonic)」生きるべきだという立場(クトゥルー新世)がある。
  • ※3出自や所得の多寡にかかわらず公平に安全な環境で暮らす権利を持つこと。
  • ※4気候変動がもたらす悪影響にまつわるフィクション。

A Time Between Ashes and Roses

How can withered trees blossom?
A time between ashes and roses is coming
When everything shall be extinguished
When everything shall begin again*

After the Six Day War of 1967, the modernist poet Adonis lamented the environmental destruction of his surroundings, questioning the overwhelming presence of ashes in the Arab World. Ash, in Adonis’s poem, is not generated through general decomposition but as a result of human activity, in this case through senseless acts of violence, war and carnage. Visualising the War through its imprints in the environment, he signifies its legacy through a geologic and everlasting time view rather than immediate causes-and-effects or a present-day understanding of territoriality. In this way, it is not all gloom for Adonis, as after extinction comes blossoming.

This sentiment illustrates a common psychological concept: for renewal and rebirth, destruction and doom must precede it; for humanity to prevail, horror must be endured and take its course. Adonis grapples with feelings of hope and despair to envision a new future, a future freed from horrors tied to the present and the past. In his extrapolation of war from the national, ethnic, tribal, and the human-centred towards a collective environment, he foregrounds the multiplicitous expressions of war: the human-made war, the war on the planet, the war within ourselves, the war with others as well as the symbolism of the war on hierarchy, subjugation, oppression, famine, hunger, exploitation; the war on resources and energy; the war of possession and authorship; the war for hope, dreams and imagination.

The political context of Adonis’ writing of the poem, who experiences states of war and destruction as an observer and witness, is grounded in our experience of the present and expanded upon in this triennial. In A Time Between Ashes and Roses, I chose neither binary extreme of ashes nor roses as ultimate frontiers to conceive of the entangled relationships of the human-made environment. I question the boundary between them–inherited from Enlightenment knowledge cultures–and posit states, conditions and spectrums of human-environmental pathways. Rather than polarities, the triennial acknowledges extremes of our environmental condition, between war and hope, and explores decomposition possibilities of the two-way street conceived between humans and their environment.

In A Time Between Ashes and Roses, I question lines of inquiry separate from the canonical framing of the human-nature relationship: Are humans decomposing nature nor is nature decomposing humans? Are humans biomatter? Are there clear distinctions between the interior, psychological human, and the exterior, botanical world? Must we accept and critique canonical concepts–from the Anthropocene to Capitalocene to Plantationocene to Chthulucene–when addressing contemporary relationships between the human and the environment? Can art and exhibition-making approach the environment as a place of the unknown and to unearth new narratives and observe alternative perspectives?

For the sixth edition of the Aichi Triennale, I wanted to look at the relationships between human beings and the environment to unearth alternative land-based and indigenous assemblages. Prior to the mechanisation of agriculture and financialization of territory, communities from around the world stewarded nature and developed reciprocity with their environmental landscapes, conceiving of rights and protections of nature, as well as building paths of kinship, reliance, nutrition and replenishment with their surrounding habitats. This triennial hails this framework as part of contemporary artistic practices.

This curatorial approach builds on while also fostering a different imagination about contemporary imagination of the environment as a portmanteau of the human’s imprint on it, not with it. It is cognizant that human activities such as agro-farming, fossil-fuel extraction, deep-sea mining, exploitation of raw natural resources as well as growth-centred mentalities inherited from imperial structures, have created a system in which the human has no respite over the environment and developed dangerous structures of dependence. Additionally, our knowledge about the environment is human-centred, placing us as superior to nonhuman lifeforms, able to alter and modify it for our benefit.

Not only is the human a technocratic engineer flattening the environment into spaces for the appropriation of raw materials, it also re-enforces the inequalities which exist within human species. The environment we occupy today is orientalised, speciated, classified and modelled to benefit some communities over others and to enhance some communities’ quality of life over others. Current discourse of greening energy also seems reserved for those who are positioned in different hemispheres with many communities from around the world unable to benefit from critical environmental rehabilitative strategies. Thus, much of today’s human-environment practices reiterate racial, social and discriminatory knowledge and thinking.

Consequently, a large proportion of the globe lives and inherits centuries-long extractive colonial empires and finds their present condition calcified by multinational food, energy and agriculture corporations. Many of these communities are disproportionately affected by these human-environment relationships created by virtue of the western world’s colonial legacies whose current urban and civil structures are overwhelmingly responsible for the global changes we’re now seeing. It builds on the continuing genocide of indigenous people and their territories, the decades-long nuclear tests on colonised territories, legacies of violence and trauma in plantations and mines where forced labour has resulted in devastating loss of environmental life and indignity of people. This has changed and continues to change the geology of the planet in ways that will be felt beyond our lifespans, with severe implications for humanity’s survival.

While acknowledging the formidable narratives and research about the human-environment relationships of the present, in this triennial I aim to decenter both the apocalyptic and optimistic extremes we find ourselves compelled to run to. I find it is only through layering complexity in our dialogue about environmental justice can we face our responsibilities and realise our complicity. To avoid imposing a hierarchy or preference for one reading over the other, this triennial invites artists and collectives from all over the world to realise existing and unknown narratives about the environment in which we occur. Is nature resilient because of how it is tested, and endures death and destruction as imagined by Adonis? Or are the dystopian, apocalyptic cli-fi futures which are void of life, mechanised and made superficial, a truly lived reality?

Rooting the triennial in Aichi Prefecture, Japan’s own environmental imagination, between ashes and roses, will also be embedded in the exhibit. Aichi is a locus of ceramic production and Seto City is famous for the fabrication of Setomono. These local industries which work with the surrounding environment’s materials and resources, will feature in the artist commissions. Since these industries are a source of local pride, they support the triennial’s exploration for alternative models of human-environment relationship. As an example, in Aichi, historic photographs and archives which depict ashy black skies generated from the production of ceramics signified prosperity rather than pollution and destruction. Thus, what conceptions of technology, locally-based knowledge, imperial history, environmental imaginations come up when we decenter the universalist Anthropocenic critique? Do such local industries and heritage pave way for alternative and spectral thinking about the human-environment entanglement?

Additionally, various moments and instances of Japanese popular culture, its fiction, films and music will also be referenced, such as Nextworld by Osamu Tezuka. In the novel, the USA and USSR are competing with each other in the atomic bomb race–a history deeply intertwined with the modern making of Japan and its environmental condition–and accidentally creates a race of mutant animals known as Fumoon. They are gifted with psychic powers and intelligence beyond humans who formulate a strategy to evacuate hundreds of animals and a small group of people off planet Earth. The Fumoon, a byproduct of nature-human species come to save the day.

Resonating with the theme of this triennial as well as Adonis’s poem, Nextworld is a traversal between apocalypse and blossoming. Altogether, these references, the locality of the Aichi Prefecture, writers such as Adonis and Tezuka, as well as the participating artists, A Time Between Ashes and Roses is an triennial which shows that in adopting the spectral, limited and in between, assumed positionalities and hierarchies can come undone.

Aichi Triennale 2025, Artistic DirectorHoor Al Qasimi
  • *Adonis, “An Introduction to the History of the Petty Kings,” A Time Between Ashes and Roses, 1970.