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2017年10月2日 レポート

レポート|関連トーク「アートとあそび展」

実施日時|2017年10月1日(日)14:00〜16:00
登壇者|茂登山清文(名古屋芸術大学教授)、副田一穂(愛知県美術館学芸員)、田嶋茂典(元愛知県児童総合センター長)、牛田康弘(愛知県児童総合センター職員)
会場|アートラボあいち2階

アートの視点をきっかけにプログラム開発をしているという愛知県児童総合センター(以下、センター)の考えやあそび、活動、行為をアートの視点から見つめるときどんなことが見えてくるのか、ということに焦点をあてたトークでしたが、話はいろいろな角度へ広がり、考える点が非常に多くありました。会場いっぱいに人が集まったトークをレポートします。

*レポート内、"内容抜粋"部分は、1人称が話し手になっています。

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茂登山先生を進行役としてトークがすすみました。最初に、現在センターで職員として現場の活動を支えている牛田さんより、センターの紹介がありました。

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(以下、内容抜粋)

児童館と一口に言っても、小型、大型、屋外、交通遊園など、その種類は実はさまざまで、豊田市など児童館がない自治体も少なくありません。また、対象が0〜18歳までの「児童」ということも初めて知る人も多いかもしれません。
センターは分類としてはA型と言われ、地域の小規模児童館や子育て支援施設などの中核組織として、職員の研修・情報収集と公開・子育て支援・あそびの開発と普及などを行っています。そうした、さまざまな役割の中で、「アートとあそび展」で取り上げているのは、あそびの開発と普及に関わる部分です。
センターの事業の中で重要なものの一つに、「特別企画」と呼ばれるものがあります。春・夏・冬の長期休暇期間に実施し、毎回テーマを決めてあそびを開発し提供しています。そこで開発されたあそびを展開していくことで、移動児童館事業(センターのあそびを地域に持って行き実施する普及事業)や特別企画以外の時期でのあそびに広がっていきます。
あそびのテーマは身近なところから取り上げています。線やカタチ、気持ち、行為(はかる、伝えるなど)、自然、文字、言葉、などです。また、あそびをつくるときの5つの「こだわり」があります。

1 あたりまえがおもしろい
2 残らないあそび
3 ムダこそあそび
4 不自由さが楽しい
5 大人が楽しいと子どもはうれしい

1つめの「あたりまえがおもしろい」は、前述したように身近なものやことを取り上げてあそびのテーマを決めることです。身の回りのことを改めて見つめることで、新しい発見が生まれ、それが日々の暮らしを豊かにしていきます。
2つめは「残らないあそび」。センターのあそびのほとんどは持って帰らずに、飾っていくことで、集合したものが、あそびの魅力的な環境を形づくっていきます。手元には残らないけど、遊んだときの楽しい気持ち、考えたこと、見つけたことはずっと心に残ります。また、砂場のあそびのように、あそびの結果がそもそも残らない、というプログラムも多くあります。今回展示もされた「石をならべる」もその一つで、石をただ並べるだけのあそびです。このプログラムは3つめの「ムダこそあそび」にもつながります。なかでも「土をほる」は最たるもので、谷川俊太郎の絵本をきっかけに生まれ、2日間かけて穴を掘って埋める、というプログラムです。一見意味がない中でも、こどもたちは土や生き物、没頭することの楽しさなどいろいろなことを発見します。
4つめの「不自由さが楽しい」は、あそびのなかにルールを設けるということです。◯◯だけしかしない、ハサミは使えない、みんなで一緒にやる、などルールはプログラムにより様々ですが、あえて枠をつくることで、それを超えてやろう!という創意工夫が生まれていきます。今回の展示体験のしくみにもなっている「おみくじら」は、おみくじをひいて出た番号のあそびをやる、というルールになっています。普段は選ばないかもしれないあそびの中にも、実は夢中になれたり、新しい発見があるあそびがあるかもしれません。
最後の5つめは「大人が楽しいと子どもはうれしい」。
センターの大きな特徴として、子どもだけでなく、大人も一緒に遊ぶというスタンスがあります。「こども」「あそび」というキーワードがあると、大人は一歩下がって、遊ぶ子どもを「眺める」存在になりがちです。センターでは、大人が本気で遊んで楽しいことが重要で、大人が子どもと一緒に本気になって遊ぶことが、子どもとの関係性を育んだり、子どもの心の成長に影響を与えます。
そして、あそびの開発のなかでもう一つ重要なキーワードが、「アートとあそびとこどもをつなぐ」です。開館当初の1996年から、名古屋芸術大学(当時)の茂登山先生とも連携しながら、2016年まであそびの公募事業が継続されました(途中、万博開催のため休館を含む)。公募事業では、全国から作品としてあそびのプログラムを募集し、審査を経た授賞作品が一定期間センターで展示体験されました。公募事業以外にも、アーティストと一緒にあそびのプログラムを開発することも大きな特徴で、ほかにも愛知県陶磁美術館やあいちトリエンナーレとも連携しています。

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センターの紹介のあとは、センターの立ち上げから関わった元センター長の田嶋茂典さんから、開館前後の様子などについて紹介がありました。

(以下、内容抜粋)

センターのような施設は、全国のどこにもありません。児童館の運営には学校のような指導要綱などはなく、それぞれの館で独自の活動がされるが、なかでもアートとあそびをつなげて考えて活動しているという場所は、センター以外にはないと思っています。
1980年代の後半、当時の愛知県庁民生部児童家庭課に、非常に熱意ある職員がいて、愛知県に良質のあそびで本気で遊べる施設を熱望していました。彼は臨床心理士で、素行に問題があるような子どもたちが集まる施設にいたことがあり、そこで、立ち直りの早いこどもは、幼少時に優れたあそびをたくさん経験している、ということに気がつき、センターの基本計画を構想するに至ったそうです。
私(田嶋)が愛知県にやってきたのは1995年。この頃、愛知県であそびと言えば、レクリエーションや遊具が中心で、あそびというよりも遊園地やエンターテイメントなどの色が強く、あそびに対価(あそぶのにお金がいる、遊んだら何かもらえるなど)を求められる機会が多く、非常に残念に思いました。
「アートとあそび」をセンターがどう捉えているかというと、あそびを広げるきっかけとして、いろいろなヒントをあたえてくれる存在だと考えています。こどもの作品をアートであるように言う人もいますが、センターでは子どもがあそびでつくったものについてはアートであるとは考えておらず、そのあそびのきっかけになると考えています。
個人的には、イタリアのデザイナーでアーティストのブルーノ・ムナーリに大きな影響を受けています。ムナーリの考え方をベースに、手法もヒントにしながら、センターでのあそびを組み立てました。さまざまなあそびがありますが、根底にあるのはムナーリの考えに通じると思っています。
ムナーリの「ファンタジア」という書籍のなかで「残されるべきものはモノではない。やり方、企画を立てる方法です。その際に出くわす問題に応じて、何度でもやり直せるような、柔軟な力を蓄えることが重要です。」という言葉がでています(意訳)。この言葉がセンターのあそびについて、言い得て妙、かもしれません。
今回の「アートとあそび展」について考えた時、アートはどこにあるかということを考えると、それは特別企画のタイトルがキーワードになっているのではないかと思います。アートを体験する以前の体験として、センターのあそびを捉えることもできるかもしれないし、そうしたきっかけとしての要素はあるかもしれません。
2016年のあいちトリエンナーレで、プレイベントとして参加作家の作品がいくつかセンターに展示されました。
ニコラス・ガラニンの、人が踊っている映像の作品でしたが、それをみた子どもたちが自然と同じように踊り始める姿がありました。あそびの環境の中で現代美術と出会うことは、非日常ではなく、とても自然に行われていたように感じ、面白く感じました。
そして、大人にとっても、子どもたちと同じ視点、立場に立ってものやことに出会える場所がセンターなのかな、と思っています。

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センター側の視点からセンターでのあそびやアートについて紹介があったあと、茂登山先生とセンターとの関わりについて話が及びました。

茂登山先生は「アートとあそびとこどもをつなぐ」公募事業のなかで、センターと関わりを持ちました。
公募事業は、休館を経て再オープン後、「汗かくメディア」として2007年から再開されました。当時、ウェブやメディアが急速に進化した時代(よりリアルに進化が感じられた時代)で、ゲーム脳という言葉が生まれたり、メディアに囲まれる環境が必ずしも子どもにとって良いとは限らない、という感覚もあったそうです。
何かできること、考えられることがあるのではないか、ということで、あそびの公募事業にメディアをキーワードに含めた「アートとあそびとこどもをつなぐメディアプログラム 汗かくメディア」が誕生しました。
「アートとあそび展」では、「汗かくメディア」と「エキゾチック」展についても紹介されていました。
エキゾチック展は、汗かくメディアのプレ事業的な位置付けで、企画展として茂登山先生を中心に企画し、3回実施されました。センターのこだわりの1つである「大人が楽しいと子どもはうれしい」や、感覚設計などをキーワードに、センターと一緒に無理なく活動を展開することができたといいます。

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センターの紹介から始まり、茂登山先生が関わった、アートとあそびとこどもをつなぐ、という視点での10年間の「汗かくメディア」を振り返り、休憩をはさんで、愛知県美術館学芸員副田さんを交えて、アートのこと、あそびのことについてのディスカッションにうつりました。

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(以下、内容抜粋)

茂登山:ディスカッションということで、厳しい話もありの、将来に向けた話もできればしていきたいなと思います。まずは副田さんから、少しまとめてアートやセンターについてお話をお願いします。

副田:美術館の学芸員としていま10年目くらいですが、鑑賞教育やこどもとアートについて考えてきたという立場ではないので、専門的な話はできませんが、自分の関心分野について、こどもやアートとあそびについて考えてきたこともあるので、センターの活動をふまえながら、アートの概念がどう入っているのかを解きほぐしていければと思っています。
あそびの5つのこだわりが、非常にシンプルでわかりやすく、面白いと感じました。昔からアートとあそびには何らかのつながりがある、と多くの人が考えて論じられ、人類学的なあそびの研究も行われたりしています。
センターのこだわりのなかで2つめ〜4つめ(残らないあそび・ムダこそあそび・不自由さが楽しい)は、どの理論や研究者とも共有できるものであると思います。3つめのムダというのは、つまり、役に立つとかそういうことではない、4つめの不自由さというのは、ルールがあるからこそ、それを起点に創意工夫が生まれてくる、そうしたところは、遠くのほうでアートとつながるかもしれません。
このあたりは一般的な考えでもありますが、「1あたりまえがおもしろい」と「5大人が楽しいとこどもはうれしい」がセンターに少し違う色をつけているものではないかと思います。
「1あたりまえがおもしろい」は、アートに置き換えても通じるところがあり、アートには日常的な素材や体験、常識を疑っていくような部分があります。
「5 大人が楽しいとこどもはうれしい」については、センターでは大人とこどもの境がないようなイメージがあり、その点は、あそびにとっては重要だと思っています。
個人的な経験のなかで、ボードゲームにはまったことがあり、こどもと遊ぶときに大人が手加減をするというのは面白くないので、こどもと対等にあそべるボードゲームを探したことがあります。例えば、ジャンケンは「運ゲー」なので対等ではありますが、あくまでも運たのみなのでたいして面白くない。戦略的な部分がないとゲームとしては成り立ちません。大人もこどもも頭を使うけど、運が入り込んできてイーブンになる。
そうした対等であるという考え方はあそびとしては非常に重要だと思います。
アートについて、問題に対して回答が無限である、というような考え方が、センターの紹介などのなかで何回か出てきましたが、そうしたことと、大人とこどもが対等であるという考え方は、突き詰めていくと、少し矛盾というか、対立するような気がします。
何かをつくりだそうとしたとき、何でもいいよと言われたら、そこには正解がないので回答は無限であると言えます。ですが、それはアートとは言えないし、あそびとしてもジャンケンに近いことで、ずっとやっていても面白いかどうかわからなくなるのではないかと思います。
美術館にいるので、美術作品をどのように見てもらうと面白さが伝わるかを日々考えていて、それは児童館の考えやアプローチとは全然違うわけですが、どのように見てもいいし、どんな解釈にでもいい、世界をどうみてもいいということは、一見美しいですが、実際はさほど自由ではない。
どうしても表現されていることから自ずと導き出される考えや思いは限られてきます。そうしたところと、実際に美術館で鑑賞をするときに伝える、自由に考えてみよう、ということが矛盾するなと考えています。

茂登山:センターで取り上げている「5大人が楽しいとこどもはうれしい」は、こどもに媚びないということで、大人がこどもになって遊ぶということとは違いますね。

田嶋:一般的なあそびは、何歳向けのあそび、というのがあるのではないかと思います。
ですが、センターでは「◯才向けのあそび」として考えることはありません。
こども向けにした場合に、その子がその年齢をすぎたときに、すぐに見捨てられるあそびになってしまう。大人がおもしろい、と思える内容であれば、それぞれの年齢なりに解釈して一緒に遊べるし、それでいいのではないか、どういう食いつきかたをしてもいいと思っています。
お父さん、お母さんが、にこにこしながら、おもしろいね、へーというだけでこどもが変わってくるというのが、実際に現場で目にするものです。

茂登山:大人が遊べないケースはよくみますね。あとは、大人がへんな指示や、つまらない答えをこどもに与えているケース。

副田:センターでは、与えられたある課題に対して、大人とこどもが同じルールで、同じように楽しめる設定がされていて、それがすごく効いているんだと思います。
それが鑑賞教育になると、知識については隔たりが出てしまう。
一緒に鑑賞することになると、知識量でいったら大人しか楽しめない。そうなると、自由に感じよう、になってしまう。そうしたところが問題ではないかと思っています。
センターなどでアートが出てきたときの、アートの言われ様が「自由」ということになっているけど、大人とこどもが対等にアートについて考えることができる地平がないかなという悩みを持っているわけです。
逆に、アート側からもこどものあそびを参考にしている、影響を受けている場合も多くありますよね。
ムナーリ以前にも、幼児教育の父と言われるフレーデル。豊田市美での抽象絵画についての展覧会で大きく取り上げられていた積み木のおもちゃがフレーデルのもので、それが実は恩地孝四郎などに大きな影響を与えています。
アートとあそびは、実は非常にコアな部分でつながっているところがあるのに、そこまでいかずに自由な鑑賞で終わってしまっています。それは鑑賞教育側がクリアすべき課題で、それがクリアできたらもう一段階深いところでアートとあそびおもしろい連携ができるのではないかと思います。


茂登山:話をかえて、持って帰らないということについてです。
初めて聞いたときはびっくりしました。できたものを並べてみんなと一緒にみるよ、ということだけど、アートと違うのはそうしてできたものとの向き合う方が違うのかなと。
センターに対して一言投げかけたいとしたら、体験をして終わらせたくないな、と思ったりしています。根本的に作品を鑑賞するという態度ではなく、つくることにある喜びを見出すわけだから、作品鑑賞とは違いますが、「つくる」と「鑑賞」はもうすこしつながりがある気がしています。
アートを使うということではないなら、アートとの接点はどういうところにあるだろうという。

副田:フレーベルの積み木などを使った教育についてはよく知りませんが、一般的に幼稚園では、レゴブロックとかで抽象的なもので具体的なものをつくる、というような行為が行われていて、それはフレーベルが元になっているのではと思います。
レゴは無批判に、教育にいいと言われていますが、実際研究としてはどうなんでしょうか。そうしたところを突き詰めていくと、こどもたちがどういうふうに世界を把握していくのか、ということになっていくのではと思います。

茂登山:センターのプログラムは単純なものが多いですよね。そうしたシンプルなところへのこだわりはどうでしょうか。

田嶋:様々な体験、経験へとつながる大元を体験できるといいな、ということです。
「あなをほる」というプログラムは本当にシンプルで、実際、はじめはこどもたちが2日間も穴をほれるか心配をしましたが、ご飯を食べる時間を惜しむくらい没頭していました。きっとその過程でさまざまなことを経験していたと思います。
ただ、複雑なプログラムも、もちろんありますよ。

茂登山:シンプルなあそびを今取り上げたのは、そのあそびの中で、できたものや行為が、外部から見るとアートにみえてくるからです。
実際に、穴を掘るアーティストもいたりする。同じことをしているように見えて、実際には全然違うことをしてるわけだけど、やっぱり意味を持つのかなと。

副田:私自身、近所の美術館でミロという作家の落書きみたいな絵が飾られていて、なぜだろうと思ったのがはじまりです。
アートとこどものあそびが似ているところが非常にあるわけです。こどもの「自由な発想」があるなら、それをアーティストがうまく取り入れているということですね。
知識を蓄え、技術を蓄えて表現することと、そうしたところから外れた表現の中にエネルギーみたいなのがあり、そこに技術を混ぜることによって高めていく部分がある。
個人的には、そうしたネタバレをしていったらいいのではないか、と思っています。自分たちがつくったものはアートじゃないのに、なぜあれはアートなのか。あそびのなかで社会のルールを学ぶことがあるけど、それと同じように、あそびのなかでアートについて考えるということ。

茂登山:話がどこかで反転している感じになってきましたね。あそびにとってのアートだったけど、アートにとってのあそびっていう視点もでてきた。そういう視点からだとセンターはなにかありますか。

田嶋:アートにとってのあそび、についてはちょっと言いにくいですね。

茂登山:アーティストはどうですか。センターにきて、作品をつくったりあそびのプログラムをつくったりしていますが、簡単にはいきませんよね。こんなところで作品つくれないでしょって思う人もいますよね。

田嶋:センターのスタンスとしては、アートをしているわけではなくて、あそびを広げるきっかけとして、アートの要素を取り入れているということです。
アートの活動をしていないつもりでいるので、作品をつくるっていうのは違うかなと思いますし、アーティストはセンターで作品をつくっているという気持ちではないと思います。
一緒にあそんでいるという感覚なのかと思うけど、そこで作品制作をしてほしいとか、共同で作品をつくっているという気持ちはないし、アーティストが提案したり、一緒に考えたりしたことを、一緒に(あそびのプログラムとして)進行しているつもりでいます。そのなかで、できたものや行為をアートとして残すことはありません。

副田:アーティスト側として、自分の制作スタンスがあって、そこから想定しうるものしかないのか、こどもたちと関わることによって変容することがあるのかというところですね。

茂登山:物理的な制約はもちろんあると思うけど、それ以上に、なにかをを持ち帰ることがあるのかなと思ったわけです。

副田:アートにとってのあそびであっても、あそびとってのアートであっても、すべてのアートがあそびの要素を持っているのか、というとそうでもないですよね。高度に政治的なメッセージがあるアートもあるわけで。逆に創作活動(アート)に全く繋がらないあそびもある。
アートの円とあそびの円が重なる部分があるわけだけど、重ならないところでなにかできないかな、と思っています。
先ほど話に出た、あいちトリエンナーレの作品(ガラニンの映像)というのは、ブレイクダンスと民族舞踊を組み合わせていて、だれがみても面白いもので、これはトリエンナーレ側が選んでいて、敷居をさげているというか、こどもでもわかるだろうという意思はあったと思います。
そうでないところで、そこを突破できないだろうかと。

ちょっと1つだけ具体的な質問をしたいと思います。
一般的にあそびのなかで競争って重要なことだと思いますが、これまで紹介された中であまり競わせるあそびはありませんでしたが、意図的に避けている?

牛田:競わせないこともあるし、競うことで気持ちが盛り上がるということもあるので、避けているわけではありません。競うあそびもあります。
でも、ほかでもできるあそびが多いので、センターはそればっかりでなくてもいいかなとも思っています。
偶然性と考えるところのバランスは配慮しています。
大人に有利だったり、偶然性が多すぎたりするのは面白くないので、実施しながらバランスは調整しています。
実践する場が毎日あるというのが、センターの特徴であり、いいところだと思っています。最初と違うプログラムになったりすることも珍しくありません。

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会場からは、(1)センターが今後やってみたいことと、(2)センターにこどもの頃からきていてアーティストになったという人はいるのか、という質問が出ました。

(1)センターで今後やってみたいことはなんですか

牛田:スタッフそれぞれが、やってみたいことなどを話し合いながら実現していくというのがセンターのスタイルです。
個人的には、これまで手をつけてこなかった、身体的な表現をとりいれることに挑戦してみたいです。ダンスなどの表現がそうですが、一緒に考えれる人がいればやってみたいと思っています。
実はこの間、映像を使って身体表現的なあそびをやってみましたが、結構面白かったです。
絶対的なあそびというのはないと思っているので、いろいろな可能性を提示するようなことをやっていきたいと思っています。

田嶋:センターでのあそびのつくりかたですが、スタッフみんなで、それぞれの経験や興味のなかから自分だったらこういうのが面白い、楽しいという意見を出し合って、こどもや大人と共感できるようなプログラムを考え出しています。
 こんなふうに、みんなが対等に取り組みながら何かをつくるというのが、本来のワークショップの方法ではないのかなと思っていますし、これからもそうやってセンターでプログラムをつくっていってほしいと思いますね。

茂登山:田嶋さんは、常々ワークショップということばはあまり使いたくないと言っているのを聞いてきましたが、今のようなお話では、それこそがワークショップということですよね。

(2)今大人になっているこどもたちがいると思いますが、アーティストになった人はいるのでしょうか。あるいは、アーティストになるのはちょっと違うと考えていますか。

田嶋:アーティストになることは、センターでは目指していません。豊かな生活を送るきっかけになるあそびの体験になればいいと思っています。
また、センターには不特定多数の人が集まってきます。学校や地域の児童館のように特定の人がくるわけではなく、追跡調査ができないので、どのように成長したかについては、自己申告でもない限りわからないですね。

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センターの活動から、センターの構想・立ち上げについて、あそびにとってのアート、アートにとってのあそび、鑑賞教育などなど、さまざまな方向へ、あそびとアートを起点に話が広がりました。
参加した方それぞれに思うところ、勉強になる部分があったのではないでしょうか。アートとあそびは度々取り上げられる機会がありますが、もう少し深く探ってみたいワクワクした気持ちでトークは終了しました。

レポート|松村淳子