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2018年3月31日 レビュー

展覧会レビュー|批評する身体:メディアと社会と表現と

批評する身体:メディアと社会と表現と

本展は「大学連携プロジェクト」の一環として標題のテーマに沿って愛知の三芸大から推薦された作家の展覧会である。ある意味で如何様にもとれる大きなテーマであったからか、三作家の作品は全く性格が異なるもので、展覧会場全体として必ずしもまとまった何かを提示するものとはなっていなかった。とは言うものの、身体というものの射程が現代において錯綜し拡大している状況の一端を照らし出すものではあったといえよう。

磯部由香子の作品では、絵具の物質性の度合いの相違から絵画空間に心地よい揺らぎが生じており、絵画の可能性を感じさせるものであった。ストロークの痕跡から身体性を直接に伝えるものであり、今なお確固として存在する身体性への信頼をうかがい知ることができる。
やや年長の大﨑のぶゆきは、大学卒業の頃から大学院にかけての作品を敢えて展示した。《1998年の私から私へ》では形ならざる不定形の土くれのポートレート写真が提示される一方、《2003年の私から私へ》では、全身にレンズを仕込んだ人型ピンホールカメラとそれによるドイツでの撮影現場の記録映像と撮影写真が提示された。前者では健康な身体への違和感といったものが、後者では視覚による健全な世界認識への異議申し立てといったものがテーマとされているのだろうか。ここでは客観的、理性的身体への不信がテーマとなっている。
松野真知の展示は、口蹄疫ウィルスの騒動と種子法の撤廃に関するドキュメント映像とインスタレーションによるものであった。放射能や情報化、グローバリズムなど、個人のレベルを超えたリスクに脅かされる人間=身体に注意を喚起してくれるもので、浸食される身体性をテーマにする点で興味深い。ただし、そのメッセージ性にもかかわらず、芸術表現としてはいささか生煮えの感も無きにしも非ずであったことは否めない。

文学においてはほとんど問題とされることはないにもかかわらず、美術における社会性や批評性(政治的問題、ジェンダーなど)を備えた作品がしばしば美術館やアートプロジェクトで社会問題化し、美術が人畜無害の癒しの対象とか愛玩物に矮小化されて捉えられかねない昨今、最も大学自治が守られるべき県内の某芸術大学で不当労働行為が幅を利かせるこの時世において、本展のような思考する美術を志向するキュレーションの場が確保されることはまことに貴重だと言わざるを得ない。

栗田秀法(名古屋大学人文学研究科教員)

磯部由香子

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大﨑のぶゆき

oosaki01.jpgのサムネイル画像

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松野真知

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撮影:城戸保/Photo by Kido Tamotsu