アーカイブ
Archives

2018年9月7日 レビュー

展覧会レビュー|斉と公平太 グスタフ・フェヒナーもしくはベンハムの独楽

自称美術作家の憂鬱、もしくは芸術作品の定義を回す

レディ・ガガ通算3枚目のアルバム『ARTPOP』(2013年)のアートワークを手がけたジェフ・クーンズは、CDの盤面とディスクトレイに錯視研究で知られる北岡明佳(立命館大学)による錯視を引き起こす図案(以下「錯視図案」と呼ぶ)、CDジャケットの裏面にHajime Ōuchiによる錯視図案をそれぞれ採用し、クレジットタイトルに彼らの名を記載した。オオウチや北岡が発見した(錯視を引き起こす)図形それ自体は著作物ではないが、オオウチや北岡によってデザインされた錯視図案は、たとえばブリジット・ライリーの錯視効果を持つ絵画がそうであるのと同様に、著作権法上の著作物として扱われる[1]。では、これらはいずれも芸術作品であると言えるだろうか。一般に、ライリーの絵画は芸術作品と見なされるだろうが、錯視図案はそうは見なされないだろう。著作物と認められることは、芸術作品であることの十分条件ではない。

これまで英語圏の美学者たちを中心に盛んに論じられてきた芸術作品の定義は、おおむね次の三つに収斂している。すなわち、芸術作品とは何らかの美的経験をもたらす機能を持つものだという「美的機能説」、芸術作品とは芸術制度(アートワールド)によって鑑賞候補としての地位が与えられたものだとする「制度説」、そして、芸術作品とは先立って存在する芸術作品と何らかの関係をもつものだとする「歴史説」の三つである。斉と公平太は、思考実験ではなく実際に制作した作品を通じて、これらの定義に対しいくつかの興味深い「反例」を提示してきたアーティストだ。色の錯視を引き起こすおもちゃのコマを直径4mまで拡大した本展「グスタフ・フェヒナーもしくはベンハムの独楽」も、その一連の仕事に含まれる。したがって本展のもっぱらの関心は、錯視現象に対してではなく、錯視図案がどのような条件下で芸術作品と見なされるかという点に向けられている。

本展についての斉と公平太のテキストを参照しつつ、巨大ゴマと芸術作品の定義との関係を整理しよう。錯視図案よりも錯視効果が弱い絵画がすでに芸術作品と見なされているという事実から出発するならば、鑑賞者の経験(錯視の経験を美的経験とみなしてよいかには議論の余地があるとはいえ)を重視する美的機能説の擁護は、どうやら筋が悪そうだ。事実、斉と公平太自身も、錯視効果の強さを追求していない。

もし、フェヒナーカラーの現象を出現させることがコンセプトであるのならば、壁掛けにしてモーターかなにかで、回転させただろう。それはそれで見てみたい気もするが、今回は独楽にしたかったので、そうはしなかった。[2]

一方、次の言葉は制度説を念頭に置いているように読める。

よくよく考えたら日常物を異素材にしたり、大きくするのは別に美術じゃなくても普通にやっていることなのである。つまり、現代美術としてやらなけりゃいいわけである。通常行為としての大きな独楽。[3]

この言明を、巨大ゴマに鑑賞候補としての地位を与えることの放棄と解釈すれば、芸術作品を展示するための施設を利用して個展を開催する行為、つまり本展のあり方とは、明らかに矛盾してしまう。したがって、このフレーズは次のような問いとして読み替えられる。「通常行為」、すなわち芸術制度の外でつくられたものを芸術制度の鑑賞候補とするには、一体どうすれば良いのだろうか。

斉と公平太がこれまで発表してきたプロジェクトは、大量生産の規格品としてのレディメイドとは違い、それ自体がユニークな人工物として、芸術制度の外でそれぞれに高い価値を与えられている。たとえばゆるキャラの「オカザえもん」は「ご当地キャラ総選挙2013」で全国2位を獲得し、正体不明のデザイナー「Hajime Ōuchi」の捜索と邂逅は錯視の研究者らによって学術誌へ投稿され[4]、本展における巨大ゴマはギネスブックへの登録申請が検討された[5]。これらのプロジェクトがそれぞれに芸術制度の外で有している価値は、同プロジェクトの芸術的価値とは一見したところ関係がなさそうだ(ギネスブックに掲載されたからといって価値ある芸術作品だということにはならない)。デュシャンのレディメイドと同様に、芸術家が芸術作品として提示し、芸術制度の権威ある参与者がそれを認めれば事足りるのであれば、芸術的価値とは無関係に見える価値を求める斉と公平太の懸命な努力は、滑稽にすら映る。

しかしここで、斉と公平太がこれらのプロジェクトを予め芸術作品であると公言したうえで実施していることを、改めて確認しておきたい。つまりこれらのプロジェクトは、初めから鑑賞者や批評家たちに向けて提示され、芸術的な価値付けにさらされる対象となり、さらには先行する数々の芸術作品と歴史的に結び付けられることが、真剣に意図されている。とりわけ最後の意図は、歴史説の擁護を後押しすることになるだろう(本展と前述のデュシャンとの紐帯は制度説の採用という観点にとどまらず、たとえば『アネミック・シネマ』における「ロトレリーフ」の、回転図案による錯視への関心にも見て取ることができる)。

本展の魅力のひとつは、芸術作品の定義を巡るこのような論点の提示ではあるが、だからといって斉と公平太の目的が完全な定義を練り上げることにあるわけではない。そしてまた、斉と公平太のプロジェクトが複数の制度において価値付けられることを目論んでいるからといって、それが芸術作品と非芸術作品との境界事例になるわけでもない。というよりも、むしろプロジェクトの持つ外見や機能といった性質からはその両者を区別することが原理的に不可能であるがゆえの、芸術作品であり同時に芸術作品ではないという緊張状態こそが、斉と公平太のプロジェクトの最大の魅力なのである。

副田一穂(愛知県美術館学芸員)

[1] ただしオオウチの錯視図案はHajime Ōuchi, Japanese optical and geometrical art: 746 copyright-free designs for artists and craftsmen, Dover Publications, 1977(原著:大内朔編『Leading Part』アド・プランニング、1973年)に掲載されており、同書は10点以内であれば掲載図案の無償かつ許諾なしでの商用利用を認めている。

[2] 斉と公平太「直径4メートルの巨大独楽を作る!(後編)」『中日新聞プラス:芸術は漠然だ!~斉と公平太のムダに考えすぎ~』2018年7月18日(http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=7657&comment_sub_id=0&category_id=591)

[3] 斉と公平太「直径4メートルの巨大独楽を作る!(前編)」同ウェブサイト、2018年6月25日(http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=7656&comment_sub_id=0&category_id=591)

[4] Lothar Spillmann, Koheita Saito, Hidehiko Komatsu, "Hajime Ōuchi - a mystery resolved," Perception, vol. 45, 2016, pp. 371-374.

[5] 斉と公平太、前掲ウェブサイト(http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=7657&comment_sub_id=0&category_id=591)

082A3073.jpg

掲載写真/撮影|城戸保