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2019年1月18日 レビュー

展覧会レビュー|ポーカーフェイス/3/アフターイメージ 不可視なものの重ね描き[パランプセスト]

 このテキストの発端、それは会期最終日、大型台風の直撃によるアーティスト・トーク中止という予想だにしなかった展覧会の終わりかたである。この展覧会に限っては、それは特別に悔やまれるものだった。というのも、出展者もトークゲストも必然としてそこにいるわけではないと自覚している(これについては後述する)この展覧会では「何が起きたのかを反芻する機会(鹿野)」としてトークは有効であるという理解がうちうちに育まれていたからである。こういった理由から生まれた"いつかリベンジ"という思いにしたがい、以下の記述は、トークの準備として四者で行ったやりとりをもとに注釈や分析を加えた反芻的なものであり、また個人的な思い入れからなるものである。

 まずはこの長い長い展覧会タイトルから始めよう。参加作家が各々の作品や三者の関係からイメージした三つの言葉、そして筆者が選んだ言葉からそれはできあがっている。

 「ポーカーフェイス」は互いとその作品を無言・無表情で探るような緊張感を感じさせる言葉である。長瀬崇裕はこれに加えて、三者の作品の静けさ、それと同居する強度を捉えるものとしてこの言葉を選んだ。確かに彼らの作品には声高なところがない。この要因のひとつとして考えられるのは作品がもつ遠回りの構造だろうか。長瀬作品の気づくか気づかないかの微細な差異や隠喩的作用、描く主体を匿名的なものに置き換える茶谷麻里のモノタイプという技法、自身に身近な世界を一種のギミックとして作品にとりこむ鹿野震一郎の俯瞰的視点、といった事ごとが、作者自身にとっても観者にとっても作品との十分な距離を確保するだろう。

 ところで、この鹿野の俯瞰的視点は彼が選んだキーワード「3」によく表れている。先に述べた「必然としてそこにいるわけではない」というのは、大学連携事業という枠組のなかで、この企画が同大学の卒業生という共通性をあらかじめ条件としていることにゆえをもつ。そういう意味ではここに新たに共通性などを書き加えていくよりも、ただ等価に三者があることが自然ということだ。

 茶谷が選んだ「アフターイメージ」という言葉には、制作プロセスと作品の質が包含されている。それが指し示すのは、まずは彼女の制作が前作の視覚的・概念的な残響のなかで進むこと。次に、未完のままで辿り着けるようなものであること。そして、繊細であるようで強靭なものであること。茶谷個人の制作と作品を描写しているのだが、三者の作品の様相を形容するものであった「ポーカーフェイス」とも通じ合うところがある。ちなみに、彼女がこの言葉を選ぶ前に考えていたのは「時間」「痕跡」だという。これが奇しくも、四つ目の言葉に繋がっている。

 「パランプセスト〔重ね描き〕」(本来の記述では「重ね書き」。以下すべて「重ね書き」と記す)。これは過去の文書を削りとり上書きした羊皮紙を指し示す言葉なのだが、削りとられた過去の層がその名残をとどめていることが多く、しばしばイメージ豊かな比喩としても用いられる。そのなりたち、その言葉そのものがなにか本質的なものを捉えているからなのだろう。言葉を選んだそのときのそんな直観にしたがって、先に簡略に触れた彼らの作品を、あらためて重ね書きとして見ていくことにしよう。

 絵画は物理的に重ね書きであるだけでなく、そこに残された痕跡=重なりが不可視の対象----主体の存在、とりおこなわれた行為、時間----を可視化するという記号的な重ね書きでもある。だが、茶谷、鹿野の場合には、そこに残された重なりはむしろ観者を迷わせるものだ。

 たとえば茶谷の作品では、版という技法上、上述したような物理的・記号的な重なりは複製された状態で示され、主体は匿名的に、行為はプロセスという時間性をともなわないものになる。だからその重なりのリアリティを承知しているのは茶谷ただひとり、しかも彼女が描画をする時間の範囲で限定されている。その対比として興味深いのが、一日を通して制作された連作だろう。この作品は刷りとり後の版を拭き取らずに次の描画を行うことをくりかえしたもので、この反復により生まれる差異が明確に時間を可視化する。形式として紙や布の物理的な重なりが見られたこともあわせて考えるべき点である。茶谷の言う「物質的な別の時間の重なり」とは、これまでのとりくみのなかでは避けがたく不可視化されてきた時間を、連作の物理的・時間的シークエンスにより、あるいは異なる時間を内包したいくつかの支持体を寄り添わせることにより可視化する試みということができる。

 一方の鹿野の作品の場合には、ごく真っ当にある絵具の重なりと同時に、しくまれた重なりが存在する。たとえばあるイメージがあからさまな様子で覆い隠されている場合には、隠されたものは不在ではなく存在を主張している。これとつながるのは鹿野の「部分を描いている」という意識だろう。そこには、部分をして全体を知らしめるという側面と同時に、部分をして全体を覆い隠す----ちょうど絵画を熱心に観ている人が、その絵画を物理的空間の一部とは考えないように----という側面がある。いずれの場合にも、画面に示されたものが反証的な導線となり、画面には示されない未確定のなにかが立ち現れる。そう考えると腑に落ちることがある。仕掛けの小道具としての描かれたモチーフは観者にとっては導線として重要でも、作品構造としては代替可能なものだろう。だからこそ「自分の置かれてしまった環境を活用する」というさばさばとした制作態度が可能になるのではないか。

 長瀬の作品には、絵画のような前提的な重なりはない。繊細なコンセプトを緻密に構造化した形式という印象を与える長瀬の作品だから、内容と形式、思考と表出といった重ね書きと言ってもよさそうなものだが、会場での彼との会話をふりかえるにつけ、この作品の形式(表出)部分は、むしろインスタレーションを行う長瀬自身のその時間、その場での知覚−経験に負うて確立されていると感じられる。自省をこめていえば、要素の微小さやそれが成立させる装置的な因果に囚われるばかりに、そこで(作家に/観者に)生じた経験を受けとめることを怠たるのは禁物である。 "湯が熱せられ、その水蒸気が針にとまり、水滴となり滴る"というような物理的因果関係による記述はもちろんこの作品には不適格だし、同様に、作家の思考がこうだからこうなっているというのも作品の経験の記述ではない。経験のうえでは、そこにあるのは原因から結果へという二項のつながりではなく、原因も経過も結果も、意味もが重ね書きされたひとつのものだからである。長瀬の作品においては、その重ね書きは主観の領域、経験の領域にある。

 このように、重ね書きとは「時間も文脈も、ときには主体も違えて書き足されたなにか」である。この展覧会も、またタイトルも、書き足し書き足しされてそのようにできあがった。そしてこのテキストは記録的・反芻的に書くと期した時点ですでに重ね書きだった。四者の思考や言葉が互いにそれを覆い、また互いの素地になっていく。その重ね書きの総体がルフィニャック洞窟のあの有名な重ね書きのようであれば愉快だと思う。天井に描かれたそれには天地もないし、引いて全体を見ることも難しい。が、その全図は驚くべき完璧な構図をなしているのだった。

                      山本さつき(美術批評)

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撮影:藤井昌美/Photo by FUJII Masami