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2023年1月25日 レビュー

展覧会レビュー|杉谷遊人「語源は話す、いくつかの方法」

主体のありか

 タブローの語源はラテン語のタブラ=板であり、タブラはまた、テーブルに、タブレットにと派生展開している。
 遠く古代ローマ時代にまで遡り、絵画の起源論を個展の手がかりにしたのはどうしたことだろう。そして選んだ「語源「は」話す」という態度。語源「で」話すのではない。行為の主体は、作家である杉谷さんではなく、「タブラ」に譲られている。杉谷さんは、「タブラ」に含まれているはずの「可能態、潜勢力(デュナミス)」に注意を傾け、そこから「現実態、現勢力(エネルゲイア)」、言い換えれば「作品(エルゴン)」を引き出す媒介者=メディウム的立場を採ろうというのである。語源が作家を、そして私たち観るものを導いてくれるということか。そして偶然か必然か、作家は言及していないものの、「タブラ」という語が「書記板」の意を持ち、これから何かが書かれる待機状態にあり、また書いては消しての繰り返しによる見えない複数性を留めるものであることも、タブロー=絵画が本来的にいくつもの可能態を持つことを示唆しているようで、本展の企てにぴったりとはまる。

 展示室ではその可能態から引き出されたものとして、蝶番で三連結にしたタブラ(便宜的にこう呼ぶことにする)が、「タブロー」として壁に掛けられ、折り曲げて「テーブル」として設置され、また「どちらでもないもの」として壁に立てかけられ、さらに会期中に転々と場所を変え、それぞれの属性を入れ替え横断する。
 語源を同じくする「タブロー」と「テーブル」が、モダニズムとモダニズム批判という対立構造において、それぞれの理論的支柱だったことも、今回「タブラ」に注目するモチベーションになっているのだろう。モダニズムにおけるタブローの垂直性に対して、テーブルという水平の方向性は、言うまでもなくレオ・スタインバーグからクラウスに至る、他の、もう一つのモダニズムの語りの重要なタームとなってきた。無数の絵の具の斑点で覆われたオール・オーヴァーな画面と、制作設置における水平の方向性とは、杉谷さんのテーブル/絵画が、この議論を参照していることを示しているだろう。画面中に人体とも生物とも判別できない図像がネガとして表現されているのも、ポロックの「カット・アウト」を容易に想起させる。
 とはいえ、この単純な見立てだけで済む話だろうか?そこでこれをタブラの語源から生じた一つの提起として、別の可能性にも目を向けてみよう。例えば、絵の具の斑点でくまなく覆われたタブラは、模様であり装飾であり、室内を飾るオブジェの一つとして、もっと言えば壁紙に見立てることもできる(作家自身がいうように、タブローをタブローとして成立させているのは制度にすぎない)。ここに19世紀末から20世紀初頭のモダニズム台頭期に、反作用のように隆盛した「装飾」の問題を重ねることもできるのではないか。そこでは絵画の同義にあたるのは、タブローではなくウォール=壁画や装飾画であり、一方のタブローは装飾と同義になり(反復模様の壁紙やタペストリーによって画面を装飾的に構成したナビ派の画家やマティスの室内画は、その顕著な例だろう)、家具を含む全てが等しく空間を統合するための装飾的事物となる。実際、タブラを様々に配置変更する杉谷さんの振る舞いは、部屋の「模様替え」というに相応しく、こうした解釈を誘発する。展示室にあるのは、タブローという特権的な名前を失った、ただの装飾としてのタブラの数々である。そして、テーブルへの移行を可能にする「三連結」という構造に目を向けてみれば、それは宗教画で多用されてきたトリプティークの形式に接続し、タブラはタブロー以前へと絵画の歴史を遡行することにもなるだろう。
 
 タブラを主体にすることで作品が複数化し、複数の解釈可能性が生じる。それは、杉谷さんを介して、観る私が(拡大)解釈・感受したものだともいえる。作家がメディウム的立場をとることで開かれる作品の世界。ではこの先、作家の主体はどこへ向かうことになるのだろう。中間域を漂い続けるのだろうか。その厄介な問題と向き合うことが、この先の制作の原動力にもなるだろう。

千葉真智子(豊田市美術館学芸員)

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撮影:谷澤陽佑/Photo by Tanizawa Yosuke