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2023年3月12日 レポート

「「生きている」を感情で感じる」大石茉幸(国際芸術祭「あいち2022」レビュー)

「あいちトリエンナーレ2019」から3年後の2022年。筆者が芸術を専攻する大学生として、2度目となる芸術祭が「国際芸術祭 「あいち2022」」として無事開催された。
3年が経ち、少なからず知識も経験もついた一鑑賞者である筆者が、今この時代と情勢でどんなことを思うのだろうかと考えていた。

 そうして踏み入れた先の世界に、筆者の感情は大きく揺さぶられた。しかし様々な感情を抱いたにも関わらず、感情の理由を会場で言語化することが出来ず、それが印象に残った作品があった。そんな感情の理由を言語化したいと感じられた二作品のレビューを執筆していく。

百瀬文《Jokanaan》

国際芸術祭「あいち2022」展示風景(注1)《Jokanaan》2019 愛知県美術館蔵
撮影:ToLoLo studio

 二つの画面にはリヒャルト・シュトラウスのオペラ《サロメ》のワンシーンを演じる二人が写されている。サロメの淫乱的な誘惑を拒絶したヨカナーン。拒絶により討ち取られたヨカナーンの首に向かって、狂信的な愛を歌い上げるシーンだ。(詳細はオペラ《サロメ》の概要を参照。)左画面には男性、右画面には女性が映し出されている。左画面には男性のスーツ姿と銀の皿、右画面では女性の血に染められた手やワンピース、そして銀の皿。この様子から、登場人物のヨカナーンとサロメだと見て取れる。
 しかし、この女性はトラッキングスーツを着た男性の動きによって存在している、3DCGとしての人物なのだ。その表れとして、サロメが自身の局部に触れながらヨカナーンへの想いを歌い馳せている一方で、やはり男性も同じように局部に触れているのである。つまりサロメは、左画面の男性の魂を宿した女性となるのだ。
 物語が進んでいく中で、男性がスーツを脱ぐことをきっかけに別々の存在のように分離していく。男性は裸体となり歌うことをやめるが、ヨカナーンの狂信的な愛の歌は止まることなく、それぞれが別の破滅へ向かっていく。

 見終えた頃には呆気に取られ、何が起きてこうなったのか、唖然とした感情や胸に残ったこの違和感が拭えなかった。ヨカナーン(男性)がいないと存在し得なかったサロメ(女性)が、ヨカナーン(男性)がスーツを脱ぎ出した瞬間に分離し、サロメ(女性)が感情を大きく露わにしていくこの変化。一体化していたものが対立し別々の存在になったその姿は、二人の性の違いや対立していった表現を徐々に際立たせた。この変化に気づいた時、局部に触れるシーンが別の意味を持つように思え、さらに歪みを感じさせた。

 このような実像と虚像の混在や分離、支配、生と性、男性と女性という性別が明らかになっていったこのシーンは、インターネットを通したコミュニケーションの手段や、ジェンダーに対する違和感や嫌悪感、現代における社会への疑惑を抱かせたのであった。

アンネ・イムホフ《道化師》

会場風景より アンネ・イムホフ《道化師》(筆者撮影)

 暗幕をくぐり抜けたその場所は、かつてスケート場とは思えないほど剥き出しの骨組みとなっており、まるで抜け殻のような空間だった。そこに広がる深い闇の中のような照明の青、それに対し会場中央に存在する赤黒い二つの画面、会場内に鈍く響き渡る様々な音と反響。全てがこれまでいた外の空間とは全く違う世界のように温度差を感じ、この空間に居た堪れないような違和感を、感情への強い刺激として感じとった。
 映像の中で宙吊りにされたスピーカーの揺れと、その揺れから徐々にずれていく鐘の音は、映像からも不安を煽っていく。この少しずつのずれが自分の中に軋みを産んでいるようだった。
 この不協感は加速していく。パフォーマーのダグラスが手にしたギターから発せられる歪みや、唐突に発せられる激しいドラムの音。鳴り止んではまた唐突にその音が聞こえ、迫り来る何かを感じさせる。
 上裸のダグラスはおもむろに床に這いずり、長い髪を床に揺蕩わせながら、髪の毛で見えないダグラスの舌が床を舐めまわる。目で見える情報も、耳で聞いた情報も、この場にある全てに強い刺激として違和感を抱かせた。
 また、会場の角に置かれていたモニターの映像からは、ダグラスが内蔵のような果実を握り潰し、その果実を自身の裸体になすりつけ、血液のように体へ滴っている。この一連の様子にはグロテスクさを感じ、思わず目を背けてしまうほど生と性の同居による存在感を感じさせた。

 現実から切り離された、アンダーグラウンドのような空間に閉じ込められ、現実では起こりえない差異を映像と音で感じれば感じるほど、この空間にザリザリと感情の軋みが増幅していった。この軋みが居た堪れなさを生み出しているにも関わらず、この場から離れることが出来ない感覚に陥り、まるでこの空間に拘束されているようだった。
 この場を支配する長髪でスレンダーで中性的なダグラスが漂わす、この世のものとは思えない雰囲気。そんなダグラスが床を舐めるだけでなくただ歩んでいるだけで、一挙一動に目を離すことができない。この非現実的な存在と行動が生み出す、虚構のような映像と空間が与える不快感や歪み、居心地の悪さは、こちらの感情へ激しく訴えていたのであった。

 この二作品の「生と性」が違和感や不協感などをこちらに与えたことによって、今この時代・情勢でも、作品に突き動かされ、たくさん考えさせられた。抱いたこれらの感情がその証拠である。このように自身の感情が強く揺さぶられたことで、「生きている実感」を感じさせられた芸術祭となったといえるだろう。

引用
・注1 国際芸術祭「あいち2022」より画像の引用
https://aichitriennale.jp/artists/momose-aya.html

参考資料
・佐藤朋子「聞こえない声を見つめる。佐藤朋子評 百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」- 美術手帖」(最終閲覧日10月30日)
https://bijutsutecho.com/magazine/review/21484

・高橋綾子「青い光と幽霊を巡る旅。国際芸術祭「あいち2022」レビュー」(最終閲覧日10月30日)
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/aichi2022-review-takahashi-202209