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2023年3月12日 レポート

「アートから見る生きる責任」森夏音(国際芸術祭「あいち2022」レビュー)

さまざまな物議をかもした「あいちトリエンナーレ2019」から三年がたち、今年もまた国際芸術祭が愛知で開催された。大学でアートマネジメントを専攻し、企画制作に興味があった私にとって、作品の良し悪しではなく、どのように開催されるべきだったのか、またどのような対策を取っていくのか、たくさんの学びが詰まった芸術祭だったように思う。
あれから3年がたち、名称を「あいち2022」に変え開催されることが決まった。私自身も学生生活を終え、国に税金を納める一社会人となった。趣味の一環として今もなお演劇や音楽活動を続けてはいるが、職業とは言えない。本レビューは作品を作るプレイヤーでも格段美術に対しての知識があるわけでもない、地元の鑑賞者として書いていく。

「あいち2022」で掲げられたテーマは「STILL ALIVE 今、を生き抜くアートのちから」。直訳すると「まだ生きている」「生存している」などがあげられる。過去から未来への時間軸を往来しながら100万年後の未来における地球や人間の存続を考える。というのが公式ウェブサイトに掲載されていた。生きていることを実感するためには対の意味を持つ「死」をきちんと認識する必要があるという当たり前だけど忘れてしまいがちなことを多くの作品を通して再認識させられたように思う。
私が実際に足を運べたのは栄にある愛知県美術館のみだ。当時、著者自身の職場が栄だったのもあり、開催期間中フリーパスを利用し数回訪れた。10階の受付を入りまず印象に残ったのが、河原温≪I Am Still Alive≫だ。電報を用いたシリーズ作品で、本芸術祭のテーマ「STILL ALIVE」の着想のもとになった作品だ。たくさんの電報がショーケースに入れられ、観客がのぞき込んで鑑賞する様子はなんだか「美術館」というより、「博物館」のように感じられた。筆者の勝手なイメージでは、美術館では壁にかかった作品や柵の奥に置かれた作品を同じ目線、又は少し見上げる形で鑑賞するものだと思っていたため、鑑賞者が展示物を囲みショーケースの中を覗き込むという行為がなんだか新鮮に思えたのだ。また、電報という現代ではほとんど触れることがないツールの展示だったのも「博物館」を感じさせた一つの原因かもしれない。

国際芸術祭「あいち2022」展示風景 © One Million Years Foundation
撮影: ToLoLo studio

もう一つ大きく印象に残った作品がある。ホダー・アフシャール≪リメイン≫(2018)だ。
南太平洋に浮かぶパプア・ニューギニアのマヌス島の美しい海とそこに生きた、いや、今なお生きている人たちの記録である。この作品に出会うまでマヌス島の存在は全く知らなかった。ただ、幼少期に沖縄に行ったときに見た夢のようにきれいな海を思い出した。かすかに見たことがある景色に自分とは程遠い所にある「監獄」や「死」の話が溢れていた。私の身近にある音楽で私にはない死の予感と恐怖が歌われていた。わたしはただ日本に生まれてしまっただけだ。ただそのまま抗うことなく日本で、ここ名古屋で生きているだけだと少しの安心と、安心した自分への絶望感が溢れた。私が訪れた時には比較的すいていたこともあり、椅子に座ってしっかりと最後まで鑑賞することができた。人の出入りがなく、雑音極限まで消された空間で大きなスクリーンと包み込まれるような音響で、かなりの没入感だった。

国際芸術祭「あいち2022」展示風景 《リメイン》 2018
撮影: ToLoLo studio

美術に関してあまり知識がない著者は、抽象的な作品が多い美術展では自分で考える余白が多くあり、自分の経験や、これまでの生い立ちを作品に投影しながら楽しんでいる。また、全く初めての表現に触れると「すごい」という感情一つで深く印象に残ったりもする。しかしながら、今回はそのように抽象的だったりこんなの見たことがない!と思うような作品は少なかったように思う。それは自分の老いもあるのかもしれないが、一つ一つが具象的で、日常にあるもの、元からそこにあったものを違う角度から見てみるといったような作品が多かったからだと思う。多角的な視点をもって作品を見るというのは私にはいささか難しい行為に思えてしまう。そこには作者による「一般的にはこう見るだろうが本質はこう」という明確な正解があり、「そこにたどり着くものこそが真の鑑賞者である。」といわれているような気持ちになったからだ。きっともっと自由に捉えてもいいのだろうが、なかなか自由な空間だとは捉えずらかった。これからの人生もっと様々な美術展を鑑賞し、より多くの経験を積んでからこの「あいち2022」を思い返すと、また感じ方や考え方が変わるのかもしれない。しかし、今の私が強く感じたのは「あいち2022」は玄人向けの美術展だということだ。難しいと感じてしまったその時から、作品と著者自身に必要以上に距離ができてしまい、対照的にわかりやすく鑑賞者に歩み寄った作品解説が、わかりやすかったものの作品を見るより先に目が追ってしまうようになり、見るというより読むという感覚が強くなってしまった。3年後、次に愛知県で行われるであろう国際芸術祭を前に私は「あいち2022」をどう思いだすのか、この文章と共に思い出すことができればと思う。