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2024年1月10日 レポート

レポート|「表現の自由」9月10日(日)

実施日|9月10日(日) 
テーマ|表現の自由
ゲスト|森功次(美学研究者、大妻女子大学国際センター准教授)

レクチャー

イントロダクション 「美学」からみる「表現の自由」
森さんは「美学研究者」ですが、美学について学んだことがある人はどれくらいいるでしょうか。実は、美学の授業を開講している大学は決して多くありません。美学とは18世紀に成立した哲学の一領域であり、芸術の本質や原理を追求する芸術哲学を含めた、美や芸術、感性を探求する幅広い学問です。森さんはなかでも分析美学を専門とし、美的経験論や美的価値論についての研究も進めています(森さんの研究テーマや業績についてはresearchmapを参照)。今回のテーマである「表現の自由」は、この連続講座2回目のゲストである作田さんも言及していたように、法律の側面から取り上げられることが多く、美学の視点から直接語るような今回の機会は特別だと言えるでしょう。つまり、法律的な問題点ではなく、そもそも作品をつくったりみたりするとはどういうことか、ということから「表現の自由」について考えていく機会となるということです。そこでは、「表現の自由=Freedom of Speech(言論)」であり、「表現の自由=Freedom of Expression(表現)」ではない、という点もポイントになってきます。


「表現の自由」について基本的なことを押さえる
「表現の自由」はなぜ大事なのか
法律面では、民主政治の根幹として重要だとされてきました。これは近代的な思想で、ある事柄に対して、さまざまな意見が(肯定的意見も反対意見も含めて)あることは、批判的思考を育て、人格を成長させるために必要だという考えに則っています。多様な意見が認められる状況によって、権力者を批判することも可能になります。そうした意見を認めない場合、民主政治は成立せず、自由が存在しないと言えます。戦前の大日本帝国憲法では、法律の範囲内において言論や出版等の自由があるとしていましたが(第29条)、「法律の範囲内」という言葉が示すように、実際には検閲が行われ、政府にとって不都合な表現は取り締まりが行われていました。戦後は、日本国憲法第21条で示されているように、言論や出版、集会等の一切の表現の自由が保証され、検閲もしてはらならないとされています。

哲学の側面では、表現の自由が守られるべき理由は2つあります。

1. 道具的理由|何らかのメリットがあるから。
2. 倫理的理由|「自由」自体に意味があり、メリット・デメリットは関係ない。基本的人権としてすべての人が有する権利であるから。

1の道具的な理由は、規制をかける際に用いられることが多いロジックです。メリットがない場合に、規制することができると言い換えることもできます。イギリスの哲学者であるJ・S・ミル(1)は『自由論』(1859年)のなかで「危害原理」について論じ、他者の自由に介入するのは自衛のためである場合に限るとしていてます。この場合の「危害」とは、物理的なものであり、怪我を追ったり生命に関わるようなことを指します。さらに、相手にとって「良い」という理由での干渉は、正当化する十分な理由にならないともしています。その人にとって良いから、幸せになるからといった「他者の意見」によって、ものごとを強制したり我慢させたりすることはできない、と言い、これを実行すると「パターナリズム」(2)となります。パターナリズムの例として、例えば他者に危害(迷惑)を及ぼしていないという理由であれば、バイク乗車時のヘルメット着用は本人の自由に委ねるべきですが、実際には罰則規定として着用が義務付けられています。ちなみに、忠告や催促、懇願などにおいては、相手のためということが立派な理由となります。強制や罰則があるかどうかがここではポイントとなります。
「自由である」ということは、「なんでもあり」にはなりません。ミルが論じているように、危害が及ばない限りにおいて自由は尊重され、守られています。一方で、ミルの言う「危害」が物理的なことを指していたのに対し、現代では「心理的危害」についても無視することはできません。物理的な危害がなくても、そこに心理的なダメージがあるかを考慮することは重要です。

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(1)ジョン・スチュアート・ミル(1806年-1873年)。19世紀イギリスで活躍した哲学者。
(2)温情主義、父権主義とも言われる。立場の強いものが弱いものに対して、その意思を確認せずに介入・干渉・支援することを指す。

「自由」のゴール
ミルはまた、少数意見を大事にすることも示しています。そこには、民主主義を形成する上で重要な「批判的な思考」を育くむねらいがあります。少数派の意見や間違った意見も吟味し、解釈や批評を行い、考えることができる材料となります。それは「真理を鍛え上げる」ことに他なりません。「自由である」ということはゴールではなく、自由であることは、批判的な思考ができることであり、ものごとを吟味することができる人を育てるということがゴールとなります。つまり、「表現の自由はその表現を批判的に吟味すること、解釈・批評の自由とセットである」と言えます。
これは、青少年向けの表現規制の根拠にも関わってきます。R12やR15など年齢によって規制が行われますが、これはまだ表現を批判的に吟味することができない年齢の人に、その表現をみせることで弊害が生じるという考えが根拠になっています。ちなみに、こうした表現規制は国がルール作りをしているのではなく、各業界団体が国からの指導の元にルールを作成し実行しているものです(例えば、映倫など)。

「表現の自由」の規制
芸術分野から考えたとき、「表現の自由」に規制がかかるのは、主に暴力的な表現や性的な表現がある場合です。わいせつ物でなければ、芸術表現は規制されないと言えるでしょうか。刑法第175条「わいせつ物頒布等罪」では、「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列」することが違法となり、しばしば、芸術表現で規制がかかる際にはこの「わいせつ物頒布等罪」が適用されることがあります。しかし、どのようなものが「わいせつ物」にあたるのかは、実は時代によってその線引きが変化しているという曖昧さがあります。この曖昧さは、萎縮効果を生み、過剰な自己規制にもつながっています。わいせつ物でなければ規制されないと言えますが、別の方法で制限される場合もあります。例えば、ある展覧会に出品される作品が行政機関や自治体等にとって「良くない」と判断された場合に、展覧会を実施するのに必要な資金(助成金等)を出さない、会場を貸さないといったような手段で、発表の機会を妨げる、制限するといったことがあります。この場合には、表現を制限しているのではなく、発表の機会を制限することにつながっているだけと言えます。

芸術領域での表現の自由について 芸術領域における「多様さ」
ミルの言う「真理を鍛え上げることが自由のゴールである」という考えは、「多様な意見が必要だ」ということであり、「表現内容の多様さをいかに守るか」ということでもありました。芸術領域においては、別の「多様さ」が取り上げられます。

[1]表現手法の多様さ
あるメッセージを伝えるために多様な表現が認められるべきであり、メッセージの効果を高めるための工夫として、多様な表現の幅が存在すべきと言えます。例えば、風刺や皮肉などが、カリカチュア(風刺画)となることで、わかりやすい権力批判を行うことができます。メッセージを伝えるための多様な表現、という考え方のなかでは例えばポルノなどは、メッセージ性のない単なる満足を得るための道具だとして「表現の自由」が保護される対象としないという考えもあります。また、初期の映画においても、アメリカでは最高裁が1915年に映画の検閲を合憲とする判断を下したこともあります。これは、映画が単なる(既知の)思考や感情の表現であり、ビジネスのための道具であり、報道機関や世論機関ではないという判断でした。芸術の表現としては認められたものの、その内容を保護するものとは見なされなかったわけです。これ以降、1952年にその判決が覆されるまでおよそ40年にわたり、アメリカでは映画に言論の自由が認められませんでした。

[2]美的価値の多様さ
美的価値の多様さを求めることと、表現内容の多様さを求めることは異なります。美的価値が多様であることは、より良い一つを目指すための競争を促すことでもありません。なぜ、芸術領域において「多様である」ことは価値があるとされるのでしょうか。近代美学でよく持ち出されるのが「ネハマスの悪夢」(3)です。「完璧な世界では、われわれはみなまったく同じ場所に美を見出すことになるだろう。だが、そのような夢は、悪夢だ。」これはネハマスが『Only a Promise of Happiness: The Place of Beauty in a World of art』(2007年)で述べたものです。いわゆるパーフェクトワールドを目指すのとは全く逆の立場として、美的価値の多様さを求めていると言えます(パーフェクトワールドを目指す態度も存在する)。
この立場について論じているのが、哲学者であるドミニク・ロペスによる「冒険説」です(『なぜ美を気にかけるのか』2023年より)。価値が多様化していると言われる現代ですが、もともと人は多様な「価値判断実践」を開拓したいという試行欲求を持っています。「価値判断実践」とは、自分にとってある対象がどのような価値を持つのかを判断することで、その判断基準には「美的価値実践」を用いることができます。倫理的価値等とは違い、善悪や二者択一ではない判断をすることができます。ロペスは美的価値実践は4つの理由から多様な価値実践の試行を可能にするとしています。

1.それぞれ異なっている
2.どれも有効(正しくなり得る)
3.共約不可能(評価軸が異なり、比較不可能である)
4.非競合的である

美的価値は人によってさまざまです。例えば、ハローキティが好きな人とヘヴィメタルが好きな人の美的価値は異なっていますが、優劣をつけることはできません。それは評価軸が異なっているからであり、ハローキティとヘヴィメタルの評価軸を比較することはできないからです。また、それぞれが好きな人がいても、互いの利益等が競合することもありません。「畑違い」とも言えるでしょうが、ハローキティが好きな人が、ヘヴィメタルが好きな人の価値判断実践(評価実践)を試すことは面白いことだと考えられます。
価値観が多元化している現代において、大事なのは外部者の観点から理解することです。ある価値観を持っている人は、「内部者(insider)」となり、その価値観を持っていない人は「外部者(outsider)」となります。外部者は内部者になることは困難ですが(異なる評価軸を持っているため)、内部者が持つ価値観、評価実践を理解することはできます。ハローキティの価値判断をヘヴィメタルに用いることは不可能ですが、理解の幅を広げることは重要です。

(3)アレクサンダー・ネハマス(1946-)、ギリシャ生まれ、哲学・比較文学研究者。

命題を明示しているのか、美的評価のあり方を提示しているのか
「表現の自由」について考える場合、その対象である作品がどういう主張・提示をしている作品なのかによって区別する必要があります。区分によって鑑賞者の態度は異なってきます。倫理的、認識的、プロパガンダ的作品であれば、批判的な態度が望ましく、多様な意見が出されることが作品にとっても必要になります。一方で、美的評価のあり方を提示するような作品においては、美的価値判断の試行実践を行う態度となり、表現に対しての否定は必要なくなり、ミルの危害原理を利用すれば、危害が及ばない限りは放っておいても良いということになります。この考えをふまえると、例えば歴史的な地区における景観保護条例などは、時代によって変わる美的価値に対して、その評価実践を妨げているという側面を指摘することもできます。

ヘイトスピーチと表現の自由
「皮肉や風刺のような、人を傷つけかねない意見をどう扱うか」ということが往々にして問題となることがあります。日本とアメリカでは、ヘイトスピーチに対する規制がゆるく、罰則規定がありません。人物や団体が特定される場合には、侮辱罪や名誉毀損罪などが成立することがありますが、ある集団一般(民族、国籍、性的指向など)を漠然と対象とする場合には、名誉毀損罪などを問うことが難しいのが現状です。2016年に「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)」が成立施行されましたが、これには在日外国人等は該当せず、また罰則規定もありません。大阪や神奈川、香川など一部自治体では条例で禁止されています。

[3]性的表象に関するさまざまな問題
「わいせつ物」に関する芸術表現の取り扱いについて先に触れたように、芸術領域ではしばしば性的表象が行われてきました。キーワードは「モノ化(objectification)」。モノ・事物ではないものを、単なる対象・モノとして扱うことを指します。性的表現を行う際、その対象がモノ化されてきたという視点です。モノ化については、アメリカの哲学者マーサ・ヌスバウム(4)が、次のようなモノ化のされ方を指摘しています。

道具化(目的のためのツールとして扱うこと)
自律性の否定(自律や自己決定を欠いた存在として扱うこと)
不活性(行為者性や活動性を欠いた人として扱うこと)
代替可能性(交換可能なものとして扱うこと)
暴力可能性(損壊しても良いものとして扱うこと)
オーナーシップ(誰かの所有物として扱うこと)
主体性の否定(経験や感情などを無視していい人として扱うこと)

例えば、女性のヌードを表現した作品はすべて女性をモノ化しているのでしょうか。同じようにポルノでは?ポルノ映画のなかにも、政治批判的な作品があることを考慮すると、全てがモノ化しているとは言えないかもしれません。
フェミニズム分析者であるイートン(5)はヌスバウムの見解をベースに、古典的ヌード絵画がどのような女性表象を行ってきたか、そのパターンを論文(6)で述べています。

視覚的メタファー
暴力のエロチック化
性的部位の前景化
性的部分への分割
一般的身体(個性を欠いたものとして表現されること)
受動性・無力さ・自律性の欠如のエロチック化
物語上の監視、もしくは自己監視(例えば、裸の女性が自分自身を見つめる場面。見つめられるべき身体というメッセージを示すことになる)
理由のない裸性
利用可能性と降伏を示す受動的姿勢

これらのパターンは「出来上がって」いるものであり、女性がシステマチックに不道徳な方法で表現されてきていることを示しています。また、こうして描かれてきた女性がタイプ化、理想化されることの弊害も論じられています。規範的なイメージを作り出すことによって、それが基準となり、道徳的な意味も持つようになったことで、規範から外れる人が自身を恥じ、他者から排除、嫌悪されるという状況を生み出しています(7)。こうした問題への対抗策として、女性像を多様化させることが有効です。これまで規範とされてきた痩身で色白の身体というイメージに対し、ありのままの姿形を受け入れようという「ボディ・ポジティブ」の動きがあらわれたのが2012年(8)、その後どんな体型になりたいかはその人の自由という中立的な立場を表明する「ボディ・ニュートラル」が2021年ごろから登場し、女性像が多様化してきていると言えます。

(4)マーサ・クレイヴン・ヌスバウム(1947-)、アメリカ出身、哲学者、倫理学者。
(5)A・W・イートン 哲学者、フェミニズムや美学と芸術哲学、価値理論などの研究者
(6)A・W・イートン『What's wrong with the (female) nude?』Art and Pornography: Philosophical Essays, Oxford University Press, 2012年
(7)この問題を扱った古典としてナオミ・ウルフ『美の陰謀ー女たちの見えない敵』(原著1990年)が紹介された。また、2018年に出版されたHeather Widdowsの『Perfect Me: Beauty As an Ethical Ideal』(Princeton Univ Pr, 2018)も話題となった。
(8)ありのままの姿形を受け入れようという「ポジティブ」なメッセージは、ビジネスシーンなどで取り上げられるようになり、世界的に広がりを見せたが、一方でそのポジティブさを強要することにもなった。また、ボディ・ポジティブで押し出されるイメージには「ぽっちゃり体型」がよく使われたが、かえってそれが規範となってしまった背景がある。そうした背景を受けて登場した「ボディ・ニュートラル」は、強要されるようにありのままの自分を受け入れるのではなく、今の自分を変えたい、今の体型は好きでない、といったネガティブな考えも受け入れる中立な立場として広がることになった。参考サイト:『「ボディポジティブ」ムーブメントの光と闇。』VOGUE JAPAN、STEPHANIE YEBOAH、2020年6月9日(https://www.vogue.co.jp/change/article/why-the-body-positivity-movement-still-has-a-long-way-to-go-cnihub、2023年9月20日閲覧)、『ボディ・ニュートラルとは・意味』IDEAS FOR GOOD(https://ideasforgood.jp/glossary/body-neutral/、2023年9月20日閲覧)

多様な価値観を守る
女性像の理想化がそうであるように、わたしたちが日々触れているさまざまな媒体によって、知らない内に均一化された価値観に慣らされてしまっている現状を考慮する必要があります。高級車や広い家、痩身で筋肉質な身体など、「成功した人のイメージ」として流通する一定の価値観がありますが、それらが本当に「成功した人のイメージ」なのでしょうか?実際は人それぞれ異なるはずです。それぞれの評価軸、価値判断実践によってそのイメージは異なっており、それぞれが自立して尊重され、理解されるべきものであるはずです。「多様な価値観がある」ことを意識し、気をつけていく必要があります。あえて、多様化させることも重要です。均一化した価値観に慣れてしまわないよう、多様な価値観を守っていくことが大切です。美的価値判断実践は、そのための思考や態度を成長させてくれるのではないでしょうか。

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ディスカッション

-インターネット上とリアル(現実世界)での違いについて
インターネット上と、現実の場所においては、表現の自由について配慮の仕方が異なります。どちらも不特定多数を対象とする場合がありますが、インターネットの場合には「みるつもりがなかったのにみてしまう」という状況になることがあり得ます。それは「環境型セクハラ」として問題になることもあります。展覧会では性的表現など配慮が必要な場合には、ゾーニングを行い「みる自由」と「みない自由」を確保していることが多く、物議を醸した会田誠の『天才でごめんなさい』展(森美術館、2012年11月17日-2013年3月31日)では18歳未満が立ち入り禁止となるゾーンも設定されました。

-外部への意識
物理的、心理的な危害が及ばない限り、その表現は規制されないとはいえ、倫理的な観点も考えると「外部」への意識を持たざるをえません。しかし、制作側となった際には、あまりにも外部への意識を持つと弊害が生じる場合もあります。公開範囲なども含めて、どのような規模の作品になるかによっても、外部を意識する度合いが変わってきます。

-影響について
物理的、心理的な危害があったり、「その人にとって良くない」と判断されるような「悪い作品」からも影響は受けてしまいます。どのような影響が考えられるのかといったことは、表現規制の際の基準になる場合もあります。しかし、どのようなラインで「悪い作品」とするのかは、国や地域などのコミュニティや時代によって異なり、曖昧さがあることも事実です。
小児性愛嗜好をともなった作品は、日本では比較的多く見られますが、表現を規制するべきでしょうか。ウォーバートンの論からは、「危害が引き起こされる可能性を生む」ために規制すべきだと考えることができます。一方で、そうした作品を好む人は前提として「フィクション」として割り切っているため、それを現実にしようとは思わないという見解も可能です。こうした時には、統計調査が効果的になる場合があります。小児性愛表現のある作品を好む人が、実際にそうした犯罪を犯したことがあるのか、といった統計をとることで、表現の規制をすべきかどうかを判断することもできるでしょう。ただ、統計を利用する際には、常にその結果を都合がいいように解釈できる可能性があるということを考慮することも重要です。

-モノ化について:学術人類館
1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会のパビリオンの一つが「学術人類館」です。アイヌ、沖縄、朝鮮、清国、台湾、アフリカやアジア諸国など、さまざまな地域の人々が民族衣装を身につけ、日常生活を送る様子を見せる、といった「人の展示」を行ったことで物議を呼び、実際に抗議を受けたものでした。ヌスバウムの言うモノ化では、不活性や代替可能性等にあたると言えますが、美的価値ではなく認識的価値や知識を伝える価値としてみた場合には、「あり得ない」とは言えない見方もできそうです。人種をテーマにした博物館が存在するように、それを展示する意図とあわせてモノ化について考えることが必要でしょう。

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さいごに
「表現の自由」はしばしば法律面で語られることが多いテーマですが、今回、哲学的側面、美的価値の側面から見つめたことで、「なぜ、表現の自由が必要なのか、大事なのか」「なぜ、芸術分野において表現の多様さが望まれるのか」「表現の多様さとは何をもたらすのか」といった、そもそもの部分を解きほぐすことができたと感じています。また、メディア等によって価値観が知らず知らずのうちに平にならされ、それを疑問なく受け入れてしまっていることにも意識を向けることができました。制作する側としても、表現や発表を支援する側としても、常に情報をアップデートしながら、「表現の自由とはなにか」を考え続けることの必要性を実感しました。今回のレクチャーでは、「表現の自由」について考えるためのベースを整えてもらったと言えるでしょう。今後、自分なりの態度を示すことができるように、考え続けていきたいと思いました。

レポート|松村淳子


参考文献

ジョン・スチュアート・ミル、斉藤悦規訳『自由論』光文社古典新訳文庫、2012年
ナイジェル・ウォーバートン、森村進・森村たまき訳『「表現の自由」入門』岩波書店、2015年
ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル、森功次訳『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』勁草書房、2023年
アレクサンダー・ネハマス『Only a Promise of Happiness: The Place of Beauty in a World of art』Princeton University Press, 2007年
辻田真佐憲『たのしいプロパガンダ』イースト・プレス、2015年
A・W・イートン『What's wrong with the (female) nude?』Art and Pornography: Philosophical Essays, Oxford University Press, 2012年
ナオミ・ウルフ、曽田和子訳『美の陰謀ー女たちの見えない敵』阪急コミュニケーションズ、1994年
Heather Widdows『Perfect Me: Beauty As an Ethical Ideal』Princeton Univ Pr, 2018年
Paul C. Taylor『Black is Beautiful: A Philosophy of Black Aesthetics』Wiley-Blackwell, 2016年
『フィルカル』株式会社ミュー