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2024年2月24日 レポート
アーティストトークの様子|これかれにたゆたう Wandering Between Here and There
名古屋学芸大学 出展作家によるアーティストトーク
日 時|2023年11月23日(木・祝)15:00〜
会 場|アートラボあいち2階
「これかれにたゆたう」の出展作家によるアーティストトークが、11月23日に開催されました。本展覧会の企画者の一人で名古屋学芸大学教授の伏木啓さんによる司会進行の中、出品作家の伊藤仁美さん、成田開さん、極楽Bros.の齋藤正和さんと小笠原則彰さんから作品や制作に関するお話しをお聞きしました。
冒頭で、伏木さんより展覧会について簡単な紹介がありました。タイトルの「これかれ」というのは、こちらとあちらを指し示す代名詞として、昔使われていた言葉です。今回はこちら側とあちら側の間を、視覚化する作品が選ばれて展示されていました。
はじめに、伊藤仁美さんから作品について話されました。
伊藤さんは「ぼーっとしている時に感じること」というテーマで、今回モノクロの映像作品を3点展示されました。何を使ったらぼーっとしている時の感覚を表現できるかと探したところ、完成した作品を展示するのではなく、編集する前の切り取られてない映像を展示することに着目しました。昨年、別の場所で展示した際は、完成した映像を流す横で、編集していない映像を流すという試みをし、今回のアートラボあいちの展示に繋がる展示構成がされたと言います。
過去の作品はカラーで撮影したものを編集し、そこに動く白い線を描いていました。しかし、鑑賞者が伊藤さんと同じように、作品を見た際に自分の体験を思い出しやすくなるには?と考えたところ、カラーよりもモノクロの方が余計なイメージが少ないので、そちらの方が良いと感じてモノクロで制作するようになったそうです。
伏木さんからコメントと質問がありました。
伊藤さんは大学院を卒業されて約8年経ちますが、学生だった当時と同じ「ぼーっとしている時に感じること」というテーマで現在も制作されていることに、伏木さんは驚かれていました。また、撮影や編集の際、常に何かを選択して制作をされていると思いますが、緻密に映像の隅々まで気を配っているというよりも、後から作品を見返した時に新しい発見ができるような余地があるように感じられたそうです。その余地は意図して作られているのか、または意図されていないのか?という質問が伏木さんからされました。
それに対して伊藤さんは、余地を意図していないということは絶対にないけれど、作品について鑑賞者と会話する中で、鑑賞者が経験したことのあるような似た部分が映像にあると、鑑賞者自身の持っている記憶を思い出すということに気がついたそうです。そこから、何回も行く場所や、何回も見るものも作品の素材として選択され撮影されるようになったと回答されていました。
《Edit》伊藤仁美 撮影:谷澤陽佑/Photo by Tanizawa Yosuke
また、普段の撮影をスマホで行うという伊藤さんに、一眼のカメラとスマホのカメラの違いについて参加者から質問がありました。一眼のカメラは重たいので、ある程度被写体を決めて撮影してしまうのに対して、スマホのカメラは軽く、体力がもつことで撮る気がなかったものも撮れるようになったそうです。そうすることで、撮るものの内容が変化し、ぼーっとしているときの幅を考えられるようになったと話されていました。
最後の質問では、なぜあえて映像としてぼーっとしている時に見ているものを、記録に残すのですか?という問いに対して、アニメーションなどは、画面に映るものを全て自ら描くため、画面の中のものを全て把握していると思いますが、実写だと撮ったものが全部映るけれど、映っているからといって全てを見ているとは限らないと言うところに、だんだんと気が付いてきたといいます。自分が気づかなかったところをもう一回見る、自分を見るためや、誰かと見るために残していると回答されていました。
次に2階と3階に作品を展示をしていた成田開さんです。
まず、2階の作品について説明されました。作品は《生まれてくる君へ》というタイトルです。成田さんが大学4年次の卒業制作展に出品した作品です。この作品は成田さんの父親が、成田さんが生まれてくる前から、6歳くらいまでのホームビデオを素材に制作されたものです。ホームビデオの1つに、母親の妊娠がわかった時(産まれる以前)に撮影された、成田さんに向けたビデオメッセージが残っていました。まだ生まれておらず、世界に存在していると言えるかも分からないものに対して、父母が語りかける映像を初めて見た時、成田さんは誰に語りかけているんだろう?と、とても疑問に思ったそうです。さらにこのビデオメッセージには父母以外に、親族からの「なんとか君〜」「あなた〜」と父母同様に生まれていない自分に対して語りかけている映像が続き、それらが奇妙に感じたことがきっかけでこの作品を制作したと言います。語りかけている対象が分からない映像と言うことで、それは成田さん以外の、鑑賞者にもなり得るかもしれないということを作品化しようと試みたそうです。
また、展示の中には自然物を一緒に扱いたかったということで、今回の展示では映像が流れるブラウン管テレビの他に、石も使われています。石の形は全て違うけれど、一つのまとまりとして見てもらいたいとのことです。それぞれ見る人に、様々な見方や経験があると言うのも含めて、作品から鑑賞者の中にある経験や記憶を喚起して欲しいそうです。
《生まれてくる君へ》成田開 撮影:谷澤陽佑/Photo by Tanizawa Yosuke
次に3階の作品についてです。《朝日が沈む夢をみて》と言うタイトルで、成田さんが水中に沈んでいくというスローモーションの映像とテキストがスクリーンに映し出されています。展示されたスクリーンの裏側にも文字や鏡が配置されており、展示空間をぐるっと回れるようになっています。
作品制作のきっかけは成田さんの祖父母が1ヶ月の間に相次いで他界されたことでした。成田さんにとって初めて身近に死を経験する出来事でした。祖父の死への気持ちの整理がつかないままに、葬式という儀式を通してその死が簡単に消化されていってしまうことに、許せないという気持ちや違和感を感じ、死に対する想いをゆっくり巡らせたいという意味合いで映像がスローモーションになっています。
祖父母はどちらもクリスチャンだったそうですが、成田さんは2人が亡くなるまでクリスチャンだということを知らなかったそうです。遺品整理をしていく中で段々と祖父が知っている人ではなくなって、一人の人間として見えて来たというのが作品のベースにあるとのことでした。
成田さんはこの作品に対して、まだ作品化することを含めて完成と思えておらず、亡くなった方を作品化するということや、成田さんの中で作品を制作したからといって、祖父が昇華されたような感じにはなれなかったと言います。今の時代において、何事もタイムパフォーマンスを求められますが、この作品を通して鑑賞者には、成田さんが本当に伝えたかったことは何なのか?ということを、時間をかけて考えてもらいたいとのことでした。
成田さんの作品について質問と感想がありました。
3階にある作品のスクリーン裏の文字についてどう言った文字なのかと、伏木さんから質問がありました。スクリーンの裏側には、文字と鏡と成田さんの祖父が残した手紙の一文が展示されています。手紙には家族に対して、「...私はキリスト教葬儀を熱望し遺言とします。」と書かれていて、なぜ祖父がこの文章で熱望しようとしたのか、どうして死を想いながら残そうと思えたのかが、この作品を作るきっかけになっていることからこの文章が書かれているそうです。また、祖父の手紙にあった好きな聖書のセリフの一つである詩篇23篇をヘブライ語で作品の裏に彫ってあります。
遺品整理を行った際に、そもそも祖父母がキリスト教信者になったのが、亡くなる2年ほど前のコロナ禍で、"何かにすがりたいという気持ち"でキリスト教に入会したというのを知り「あ、そんなものだったんだ」と思ったと言います。なぜこのタイミングでキリスト教になろうと思ったのか?など、祖父に対して色々聞きたいことが出てきましたが、すでに他界されてしまったので聞くことができず、あえてこの作品の裏側に文字を彫ることで、成田さんは祖父が伝えたかったことの断片的なものを残そうと考えました。少し角度を変えてみると別のものが見えてくる、ということを伝えるために、あえて裏側にも回れるようにスクリーンが配置されているそうです。
3階の作品に関して、映像の中で成田さん自身が水の中に入っていく様子は、一方では体内に回帰していくようにも見え、もう一方では擬似的に死というのを自分の中で追体験しているようにも見えます。実際の撮影は大変だったと思いますが、水の中に入るという体験を通して何か感じたことなどあれば教えてくださいという質問があがりました。成田さんは、スローモーションで撮影する際、水の中で綺麗に並行に体が沈んでいく画を撮影するのに、かなり苦労されたようです。水中での撮影を繰り返すことで、自ら息を止めることに限界があることや、生きている自分の脳や肺に空気が溜まっていることを実感したと言います。
また、別の参加者からの「人が亡くなったからといって、その人全て(故人との思い出など)がなくなるわけではないと考えています。しかし、亡くなったことにより不在の存在感みたいなものを感じてしまうことがあるかもしれませんが、成田さんが制作されているときのように、様々な形で故人を想う時間に出会えるといいなと思います。」というような言葉に対して、成田さんは祖父が亡くなった後に、遺影がピアノの上にずっと置かれ、それに対して母や妹たちが毎朝話しかけたり、お茶を置いたり、夜になるとお酒に変えて乾杯と言っているのを見て、妙にそこに祖父がいるような感じに違和感を覚えたそうです。それは、遺影写真に対して言っているのか?それとも、その隣にある祖父の遺骨が入った骨壷に話しかけているのか?という疑問だったと言います。実際にあるものではなく"メディア"というものに対して、話しかけていることを奇妙に感じたので、不在というより記録として残していますと答えていました。
最後の参加者からの質問では、「死を考えたと思うんですけど、逆に生きることについて考えましたか?」という問いに、祖父のことをずっと色々考えながら作品を作っている時に、お腹が鳴り、お腹すいたなと思えたことは逆に、その死を考えていたからこそ強く生きたいと思っていると感じられたそうです。
最後に極楽Bros.の齋藤正和さんと小笠原則彰さんが話されました。
極楽Bros.は、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]で出会ったメンバー齋藤正和さん、白前晋さん、小笠原則彰さんの3人で活動しています。今回の展示では14年ぶりに齋藤さん、小笠原さんの2人で展示に参加しました。自分たちが極楽と思える場所、もしくは状況とは何か?という問いから、チーム名に極楽を冠し活動されています。
今回の展示は3階のフロア全体を使う、巡回型の展示構成になっています。展示は2007年から2009年ごろに撮影された映像素材を使った写真から始まります。次に、同じく過去の映像素材を使い、風景自体が溶けていくような映像作品が大きく壁に投影され、座って鑑賞できるようになっています。その後、闇の部屋の中に入ると揺らめく映像作品があり、そこから出てさらに進むと、床に蛍光灯のような光と白い紙が敷かれた空間に、蜂の巣や虫のようなものが点在しているインスタレーションが動線と壁に沿うように展示されています。最後に、半透明のビニールで円筒形に囲われた空間の中に極楽Bros.の3人が1人ずつお寿司の供物に対して正座しているオブジェがあり、ブッタマシーンに辿り着くという展示になっていました。作品と作品の間には長方形の短冊のようなピンク色の黒板があり、そこにはテキストが記入されていました。
《やっぱり戒壇》_会場風景 極楽Bros. 撮影:谷澤陽佑/Photo by Tanizawa Yosuke
齋藤さんは2007年当時、あまりにも景色が早く変わりすぎると思い、動いているものは消え、動かないものは残るという映像が撮りたかったと言います。今まで東京に人がいない風景を見たことがありませんでしたが、コロナを経て人がいない風景があり、その風景をもう一回作れるのではないかと考えたそうです。撮影した景色の、建造物や人工物の前にいる人の動きというのは消えてしまうという、エフェクトで映像制作されています。今までの集積で「何かいる」というような"気配"がポイントになると気づいていったと言います。
また、小笠原さんは2011年に東日本大震災で福島第一原子力発電所がメルトダウンした際、東京都内で実施された計画停電に御茶ノ水で遭遇され、その体験から電気がないと作品ができないというわけではないと気づいたと言います。
その後、過去作品について話されました。《楽土の求め方》というおおがきビエンナーレで2004年に発表した作品では、「みんなは何を望んでいるのか」という疑問の答えを知るために、地下通路に3枚のキャンバスを設置し、それぞれのキャンバスにいくつかの問いをたて、通行人が自由に回答を記入できる作品が制作されました。この作品は、2chの掲示板にリアルタイムでリンクしていて、展示場所に設置されたモニターで掲示板の様子が表示されていていました。ネットワーク内で会話ができる形式になっており、会場の展示空間とは別にインターネット内に空間ができていたと言います。さらに会場では、何をしたら死ねますか?という問いや、ネットに上がった書き込みを機械が音声で読み上げていました。2chでは死についての語りがあり、これに対しての会話を機械が読んでいくというのは精神的にも、身体的にも堪えるもので、24時間眠れなかったというエピソードが話されました。
質問では作品の展示空間に点在するテキストがすごく印象的なので、テキストについて話しを聞きたいという意見がでました。テキストというのは極楽Bros.の中でメディウムと呼ばれていて時間の流れを作る接着剤のような、場の流れを繋ぐものとしてテキストが存在していることが話されました。寺院における説法のような有難いお言葉を引用しつつ、少し崩して自分たちなりの言葉にして制作しているそうです。黒板に書かれたテキストが2枚ずつ展示されていたのは、極楽Bros.の齋藤さん、小笠原さんがそれぞれが選んだ言葉だからです。
また、極楽というキーワードや、展示の最後がブッタマシーンで終わることについてコメントいただければという要望に対しては、これまで極楽Bros.が発表してきた作品のタイトルを振り返ると《極楽での永住券》《お望みのままに》《楽堂の求め方》《巡業》というシリーズがあり、仏教用語が多様されていることが話されました。それらの関心の根本にあるのは、極楽をキーワードとした"人間の欲望"で、作品を通して今の社会を考えている気がしますというコメントがされました。
《やっぱり戒壇》_ブッタマシーン 極楽Bros. 撮影:谷澤陽佑/Photo by Tanizawa Yosuke
今回のアーティストトークと展示から、はっきりと言葉にならずとも"なんとなく違和感、なんとなく怖い、なんとなく見たことある気がする"といった、本質にたどり着くまでの、ぼやけた輪郭の捉え方が共有できたのではないかと思います。このぼやけた輪郭を共有すること、あちらこちらの輪郭をゆらゆら考えることが、今回の展示タイトルであった「これかれにたゆたう」ということなのではないでしょうか。ゆっくりと時間を使い、時にはぼーっとすることが、誰かと共有されると、考えていることの本質に近づく一つの方法になるのかもしれないと思うアーティストトークでした。
(レポート|東美沙季)