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2024年10月27日 レポート
レポート| 「作品の鑑賞」 8月18日(日)
8月18日(日)
作品の鑑賞
ゲスト|森功次(美学研究者、大妻女子大学国際センター准教授)
レクチャー///
「作品をみるとはどういうことか」というテーマで、美学・芸術哲学的な知見から、作品鑑賞の態度や芸術的価値をどう評価するのかといったことを、森さん自身の論文や、哲学者・美術批評家たちの論を参考に、ひもといていきました。
森功次さんについて
「美学」とは、哲学の一種とも言えます。美術史は歴史的な観点で美術を捉えますが、美学は思想的な観点から向き合います。森さんは分析哲学と文化をつなげる雑誌『フィルカル』(注1)の編集に2018年から携わり、2020年からは副編集長をされています。近年は、英語圏の分析美学を研究の主軸とし、対話型鑑賞についても論文等を書く機会が増えたそうです(注2)。また、今最も関心を寄せているのが「子育ての美学」であり、なぜ子どもがかわいく見えるのか、かわいく見える経験について美学的に検討することを考えているそうです(注3)。
美学を中心にさまざまな分野に興味関心を持っている森さんから、「作品の鑑賞」について以下の流れで紹介していただきました。
1.鑑賞の目的についての2つの立場
2.芸術的価値についての2つの立場
3.「鑑賞の自由」という考え方について
注1...『フィルカル』については公式webサイトを参照。(https://philcul.net/?page_id=42)
注2...森さんの著作については文末を参照。経歴詳細はresearchmapを参照。(https://researchmap.jp/morinorihide)
注3...web記事参照。『なぜ子どもは「できないことばかり」なのにかわいく見えるのか? 「子育ての美学」という試み』2024年5月25日、KODANSHAホームページ(https://gendai.media/articles/-/130243)
作品鑑賞の目的とはなにか:鑑賞の目的についての2つの立場
本日の問いとして次の3つを確認しました。
1.芸術を鑑賞するということは、どういう態度をとることなのか。
2.良い作品鑑賞と悪い作品鑑賞を分けるのは何か。
3.鑑賞によって私たちは何を評価しているのか。
「まずは自分で考えてみてください」と森さん。哲学のおもしろさとは、自分で考えることと、その考えが変わっていくところにあると言います。そもそも、芸術を鑑賞するという時にどのような作品・ジャンルを思い浮かべるのでしょうか。思い浮かべるものによって、考え方や捉え方が異なってきます。今回、受講生の多くがイメージしたのは絵画作品でした。美術館にある作品というイメージで共通していました。一方で、アイドルのライブやアニメーションといったイメージはなかったようですが、こうしたポピュラーカルチャーの芸術では、また違う解釈ができると言います。
私たちがなぜ作品を鑑賞するのか。その目的について2通りの立場が考えられます。
1つ目は、作品の評価(価値を査定する、Assessment)をするためというもの。2つ目は、良い経験をしたいから、というもの。どちらの立場をとるかによって、「良い鑑賞とは何か」も変わってきます。何を求めて美術館に作品を見にいくのか、自分は何をしたいと思っているのか、といったことを意識してみてください。どちらの立場が正解というものではありません。自分自身が何を得たいと考えているのか、それを意識することが重要です。
この2つの立場のどちらをとるのか、ということは、芸術的な価値をどう捉えているかということにつながります。
何が芸術たらしめているのか:芸術的価値についての2つの立場
「芸術的な価値」はどのような基準で定めることができるのでしょうか。「芸術作品の価値」とは区別されます。芸術作品としての価値は、経済的な観点や、利用価値による観点など、さまざまに存在しますが、芸術的価値の査定基準は2通り考えられます。
1つ目は、良い経験を与えられるかどうかで判断する経験説、2つ目は芸術的達成が成功しているかどうかで判断する達成説です。
<経験説>
最も一般的な判断基準であると言えます。とくに「快楽主義(hedonism)」と結びつけられることが多く、作品を見て美しいと思ったり感動したりすることで、快楽を得た状態になり「良い経験をした」と判断します。経験内容は快楽に限らず、ほかにも認識的価値として作品を通して自分の考えが変わったり新しい知見を得たりすることに価値を見出す場合や、宗教的な価値も考えられます。
経験説は、芸術的価値の判断基準としてわかりやすい考え方ではありますが、問題も孕んでいます。
【経験説の問題① 置き換え可能であること】
快楽主義と結びつけて語る場合に必ず指摘される点です。美しいとか感動したとか感じることが良い経験となっている場合、同じような快楽、経験を得ることができれば、その対象は何でも良いのではないかと言うこともできます。つまり、機械的な仕組み(哲学的には経験機械と呼ぶ)や薬などで同じような快楽を得ることと同じではないかということです。
【経験説の問題② 価値の無際限性】
石ノ森章太郎は、漫画はあらゆることを表現できるとして「萬画宣言」を出し、1989年に『マンガ日本の歴史』(中央公論新社)シリーズを発刊します。日本史を漫画で学ぶ先駆けとしてベストセラーにもなりましたが、漫画として面白いかどうかというと、森さんは首を傾げます。知識を得ることが「良い経験」とみなすことができますが、それはすなわち漫画という作品としての価値と言えるでしょうか。これは、経験説では多様な観点が容認されるために生じてしまう問題です。作品としての価値があるかどうかを判断するためには、特別な価値基準を設ける必要がありそうです。
【経験説の問題③ お門違い評価問題】
1959年にエド・ウッド監督による映画《PLAN 9 FROM OUTER SPACE》が公開されました。1970年代までは史上最低の映画として酷評されていましたが、1980年代に優れた作品として評価する批評家が登場してきます。SFの約束事を揶揄することで時代抵抗的な作品として成立しているという論調ですが、これについて現代芸術哲学を専門とするノエル・キャロルは『批評について: 芸術批評の哲学』(2017年、勁草書房、森功次訳)のなかで、恣意的な印象によって価値判断がされており、適切な判断が下されていないと反論しています。
だがわたしたちの多くは、こうしたやり方にためらいを覚えるのではないか。というのも、偽物の人生よりも現実の人生を好むのと同じで、わたしたちはどうせなら本当に時代抵抗的な映画を経験したいと思うからだ。これはもはや、自尊心の問題という他ない。『プラン9・フロム・アウタースペース』を『勝手にしやがれ』(注4)の同類とみなすというのは、どこかわざと馬鹿げたことをやっている感じがしないだろうか?それは道化や愚か者の役回りを自覚的に演じるようなものである。またそれは、茶葉が未来を知らせてくれているのだ、と自分で思いこむようなものだ。理性ある人物が意図的にそのようなことをやっているのだとしたら、それは確実に自虐的なふるまいだろう。
『批評について: 芸術批評の哲学』p.88より
キャロルは上記のように述べ、恣意的な印象ではなく「成功的価値(Success Value)」で評価すべきであると主張します。
注4...ゴダールによる1960年公開の映画。それまでにない演出方法で、のちの映画に大きな影響を与えた。
<達成説>
キャロルの主張する「成功的価値」による評価が、達成説です。成功とは区別され、達成要件は以下の4つになります。
1.能力を発揮すること
2.成功すること
3.能力の発揮の「おかげ」で成功していること
4.課題の妥当性が認められていること
弓矢で的を狙う状況で説明するとよくわかります。この場合の「成功」とは、的の中心に矢を命中させることです。偶然が作用し思いがけず的の中心を射抜いた場合、成功ではありますが達成したとは言えません。狙いを定め、正確に射抜くスキルによって、的の中心に当てた場合に「達成」したと言えます。つまり、「的の中心に当てよう」という意図があり、それを自らの能力によって達成したことで、的の中心に矢を命中させるという課題が成功していると言えます。
芸術的価値について、達成説では、ある制度があり、それを共有しているコミュニティが存在し、その中で達成されることによって、芸術的価値が評価されます。この考え方は、芸術以外の分野でも当てはまると言えますが、芸術の場合には「独創性(originality)」が大きな拠り所となります。
「独創性」は18世紀ごろに登場した概念で、現在では芸術以外の分野にも広がっていますが、未だ芸術の中では中心的な考えとして位置付けられています。例えば、リレーショナル・アートと呼ばれるタイプの作品・活動においては、社会福祉活動と見られるか、芸術実践と見られるかで、独創性の評価が大きく変わってきます。芸術は作家性が強く、誰が作ったものか、誰が関わっているのかが明らかにされている場合が多いですが、それも独創性に重点が置かれているからと言えます。また、この独創性は経験的価値からの影響を受けないものでもあるため、より正しい価値判断を下せると考えることもできるでしょう。
しかし、達成説でも説明できない作品は存在します。《ミロのヴィーナス》は評価の高い作品ですが、これは作者の意図しない形で評価されている例です。腕は破損した状態ですが、これは作者があえて意図したことではなく、偶然の産物です。こうした場合は、「経験説」によって作品の価値判断をするしかないでしょう。
森さんは、どちらかの説に集約させる必要はなく、どちらの立場も取り入れた「ハイブリッド説」を用いて判断すべきではないかと考えています。
3つのアイディアから:「鑑賞の自由」という考え方について
芸術的価値を査定するためには、経験説ではなく達成説をとるべきという論調が優勢ですが、森さんは「ハイブリッド説」を提唱しているように、どちらを選んでも良いと考えています。自分にとって何が大事なのかによって、立場が変わるためです。そこで考えられるのが、「楽しめれば良い、芸術とは自由なものであるから、自由に見ればよい」という考え方です。
ここで言われる「自由」とはどういうものでしょうか。ルールや制約が全くない自由を想定する人は少ないでしょう。ひとつの考え方は、何をしてもいいという自由ではなく、作品に対して「意味解釈の自由」があるという主張です。では、その自由はどのような枠組みの中で主張することができるのでしょうか。
<アイディア① アーサー・ダントー【深い解釈】>
アーサー・ダントー(1924-2013)はアメリカの分析哲学者で、作品を作品たらしめるのは、芸術の特定の理論であるとし、「深い解釈」と「表面的解釈」という考え方を示しました。
ダントーは1964年に論文「アートワールド」を発表しています(注5)。アンディ・ウォーホル《ブリロ・ボックス》は、市販されている商品を精密に模倣した作品です。いわゆる美的な価値は、商品としてのボックスも、作品としてのボックスも変わらないと言えますが、片や消耗品、片や作品として扱われている、その区別はどのように生じているのかといったことを考えました。
その基準こそが、芸術の特定の理論です。それは作者が念頭におく理論のことであり、要は作者の意図ということになります。この作者の意図が「表面的解釈」にあてはまります。
もう少し詳しくみていきます。タクシーをとめるために手を挙げている人と、単に手を挙げている人がいた場合、行為は全く同じですが、その意図は異なっています。作品も同じように、作者の意図していたことがわからなければ、その行為(作品)を正しく解釈することはできません。
それに対して「深い解釈」とは、作者が意図しなかった図式や概念を用いて解釈を試みることであり、例えばシェイクスピア(1564-1616)の作品をフロイト(1856-1939)の原理で読み解く、というようなことです。作者の意図が判然としない場合にも、この「深い解釈」によった解釈を試みることになります。ダントーは、「深い解釈」と「表面的解釈」を乖離させず一貫させることが必要であり、「表面的解釈」で作者の意図を念頭に置いた状態で「深い解釈」を試みるべきだと主張します。
<アイディア② ケンダル・ウォルトン【カテゴリーを定める基準】>
(記録動画よりキャプチャ) イブ・クラインの作品
ケンダル・ウォルトン(1939-)は1970年に発表した論文「芸術のカテゴリー」で、当時、作者の意図は不要だと考えられていた美術批評の潮流を大きく変えました。
ウォルトンは、作品の解釈においては「正しいカテゴリー」を見出すことが必要であると述べています。どのカテゴリーの下で見るかによって、作品の性質が異なって見えてくることに加え、「正しいカテゴリー」が存在すると主張します。
例えば、デッサンの練習などでよく用いられるギリシャ彫刻の石膏像は、上半身だけの半身像であることが多いですが、わたしたちは腰の部分で真っ二つに切られた人だとか、真っ白い人だとかは考えません。半身の石膏像という認識のもとで見ています。つまり、この石膏像においては、「半身の石膏像」というカテゴリーで見ることが正しい見方であると言えます。イブ・クラインの作品は、絵画作品というカテゴリーで見るから意外性を感じたり面白がれるのであって、壁紙というカテゴリーで見た場合にはそうした面白さを得ることはできません。
では、どのように正しいカテゴリーを定めれば良いのでしょうか。定めるための基準はいくつか考えられます。
● 作者の意図
● 社会的慣習
● 作品が最もよく見えるという美的な良さ
● 制作プロセスによる作成法
ただし、キャロルは「作品が最もよく見えるという美的な良さ」という基準には反論しています。こうした「美的な良さ」は、経験説からくるものであり、恣意的な判断によってしまうという考え方です。
<アイディア③ ジェロルド・レヴィンソン【2つの意図】>
ジェロルド・レヴィンソン(1948-)は、論文「文学における意図と解釈」(注5)のなかで、作者の意図と解釈の関係について述べています。「カテゴリー的意図」と「意味論的意図」という2つの意図について言及し、作品のカテゴリーを定める際には、作者の意図が必要になる一方、作品の意味解釈を行う場合には作者の意図は不要だとしています。これは、レヴィンソンが鑑賞者の自由を重視する立場をとっていることも影響しています。
<3つのアイディアから>
ここまでみてきた3つのアイディアは、作品を解釈する基本的なルールを定める(作品のカテゴリーを定める)ためには作者の意図が必要だとする態度をとっている点で共通しています。その枠組みの中で、作品をどのように解釈するのかという点で異なっています。作者の意図と解釈の関係は複雑で興味がつきない論点です(注6)。
注5...西村清和 編・監訳『分析美学基本論文集』(2015年、勁草書房)に和訳版が掲載されている。
注6...この問題に関心がある人は、『美学辞典』(美学会編、2020年、丸善出版)に収録されている森さんの論文「批評・解釈の役割ー作品の意味は作者の意図に還元されるのか」を参照。
ディスカッション///
受講生からの質問を起点に、レクチャー内容をより深めていきました。
先に作者の意図を知ることは、解釈の幅を狭めることになり「深い解釈」ができなくなるのではないだろうか?
対話型鑑賞でもよくとりあげられる問題点だと言います。解釈の幅が狭まるかどうかは、作品を経験説・達成説どちらの立場で捉えるかによって異なりますが、どちらかが正解というわけではありません。自分の人生にどんなものを取り入れていきたいのか、と考えると良いのではないか、というのが森さんからのアドバイス。また、ジャンルによっても変わってきます。現代美術の場合は、作者の意図をわかったうえでないと作品の意味をつかめないこともあります。一方で「ネタバレ」的な考え方もあります(注7)。初見の感動が薄まってしまうことで、作品と自分自身との出会いが味気ないものになることも考えられます。作者の意図を先に知ることは必ずしも作品解釈の幅を狭めるとは限りませんが、自分がどのように作品と向き合い、何を得たいと考えているのかを意識することが大事になるでしょう。
注7...森さんはネタバレが許容できないタイプ。映画の予告編でさえみないようにしていると言います。『フィルカル』Vol. 4, No. 2 (2019 年 7 月 1 日刊行)に、論文「観賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、 そしてネタバレ許容派の欺瞞」が掲載されています。ダウンロードして閲覧できます。(https://x.gd/4hpY2)
レヴィンソンの考えでは、作者の意図を大きく逸脱した場合でも鑑賞者の独創性(鑑賞者による独創的な解釈)が容認されるということか?
おさえておきたいのは、レヴィンソンは鑑賞者の自由を重視していても、その解釈の独創性は意識していないという点です。作品解釈に作者の意図は必要ないという立場であると同時に、解釈をするための枠組みである作品のカテゴリーを定めるには作者の意図を理解する必要があるという考え方です。
現代アートでは、作者の意図やコンセプトがあることで鑑賞が窮屈に感じられることがある。意図やコンセプトの明示は必要ないのではないか?情報がゼロでも良いのではないか?
現代アートのなかでも、リレーショナル・アートの場合では、作者の意図が伝わらないと何をやっているのか全くわからないことが多く、作者の意図・コンセプトの明示は必要だと森さんは考えます。むしろ、現代アートに関しては、作者の意図・コンセプトがわからないほうが、鑑賞が窮屈になるとは言えないでしょうか。
一方で、現代アートの多くが、鑑賞者の善意からなる「考えてあげなくては」という態度に丸投げしていると森さんは感じています。疲れている時に現代アートはみれない、という森さんに共感する人も多いのではないでしょうか。
作者が思いもしなかった解釈が生まれた場合、それは正しく良い鑑賞であると言えるのか?
近年、鑑賞者の自由をある程度組み込んだ作品を制作する作家が増えています。そうした意味でも、思いがけない解釈に対して特に反論せず、受け入れるという態度の作家が目立ちます。しかし、それは果たして作者自身の達成と言えるでしょうか。作者の意図を伝えず、解釈についても鑑賞者に丸投げという態度においては、作家自身の成功とは何を指せば良いのでしょうか。豊田市美術館で2023年に開催された企画展「吹けば風」(2023年6月27日-9月24日)では、作品作家情報がほとんど提示されませんでした。そうしたことを受けて、森さんは作家の成功とは一体何だったのかという論点で論文をカタログに寄稿しています(注8)。
注8...森功次「「吹けば風」展では誰が何を達成するのか 」『吹けば風』2023年、豊田市美術館
達成説による鑑賞のプロセスとは?
キャロルは作品鑑賞の際には、作品がどんな問題を解決しているのかという点に着目することが肝要であると述べています。作品独自の問題が必ずあり、それがどんな問題なのかを突き止め、そしてその問題解決が成功しているかを判定するといったプロセスが考えられますが、一つずつプロセスを踏んで鑑賞しているというよりも、一度に総合的に判断しながら鑑賞していると言えるでしょう。
子どもが作品を鑑賞する際に、作品の意図を伝えるべきか?
そもそも、芸術作品は子どもが対象として想定されていない(一部、現代アートでは子どもを対象としているものもある)ため、作品の芸術的価値を評価するような鑑賞をさせる必要はないのでは、と森さんは考えます。また、子どもに作品を見せることの意味・意義・目的についても考える必要があるでしょう。作品を総合的に評価判断するためには、美術史や社会的背景など多様なものごとを把握する必要がありますが、子どもの鑑賞にそこまで求めているのでしょうか。
キャプションが作品の自由な解釈を妨げているのではないか?
展覧会をキュレーターとアーティストとのコラボレーションと捉え、キャプションも作品の1つとして考えることもできると森さんは提案します。一方で、必要な情報だけを恣意的な方向付けをせずに提供できるようにキャプションが制作されることが望ましいとも考えています。
愛知県美術館では2023年に企画展「幻の愛知県博物館」(2023年6月30日-8月27日)が開催されました。情報の細やかな提示が不可欠な展覧会でしたが、長々とテキストを置くのではなく、キャプションに小見出しをつけることで理解を促す工夫がありました。賛否はあったでしょうが、こうした学芸員側の工夫にも目を向けたいところです。
小見出しのついたキャプション(筆者撮影)
不快さを鑑賞者に与える作品をパブリックな場で展示することについて、作者の責任などをどう考えるか?
ハラスメントにつながるタイプの作品は昨今展示が難しくなってきています。しかし、不快であることがフックとなっている作品は少なくなく、不快だということが作品の価値を低下させることにはなりません。したがって、表現として不快になる要素を避けるべきでもないと言えます。配慮としては、年齢制限や空間のゾーニングなどを実施することができます。その場合には、表現を規制するラインをどこに置くのかを明確化することが大切です。
作者の意図が不要だという立場は閉鎖的だと感じる
そもそも現代アート、とくにコンセプチュアル・アートは万人受けしないものと言えます。市場からみても、万人に受け入れられる必要はなく、裕福な少数が受け入れてくれれば市場として成立するという特徴があります。学芸員1人に受け入れられれば、展覧会や作品収蔵などの機会を得ることも可能と考えると、芸術自体が万人受けしなくて良いものだと考えられます。一方で、芸術は全ての人が楽しめる、と声高に言われていることも確かです。この矛盾をどう考えるでしょうか。
作者の意図を知ることは「わからない」と終わらせない、作品と向き合う幅を広げるものだと思う
実際、多くの作者は自身の制作意図を明確に説明できないと言います。学芸員や批評家が言語化しますが、代弁するのとは少し異なります。必ずしも、作者本人が意図を明文化するのが良いわけではなく、かえって理解を困難にする場合もあります。また、意図を明示するとは、どういうことかを考えることも必要です。それは、言語化することなのか、作品として完成させることが明示化となっているのか、意図の明示化には様々な考え方があります。さらに、説明しないことが、その作品の価値を担保している場合もあり、一筋縄では行かない問題です。
さいごに////
作品をどう鑑賞するかということをみてきましたが、もしかするとあまり意識されていない「鑑賞する」と言う行為について、それがどのような意味を持つのかを、いくつかの立場から検討することができました。また、作者として自分の作品の解釈をどう構築していくのか、構築されるのを受け入れるのか、といったことについても考えが及んだのではないでしょうか。
多くの書籍、論文を紹介いただきました。以下に一覧を掲載します。
(レポート|松村淳子)
参考文献
⚫️森功次さんの著作・論文
ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル著、森功次訳『なぜ美を気にかけるのか: 感性的生活からの哲学入門』(2023年、勁草書房)
京都芸術大学アート・コミュニケーション研究センター『ここからどう進む?対話型鑑賞のこれまでとこれから』「対話型鑑賞の功罪:美的知覚の観点から」(2023年、淡交社)
『吹けば風』「「吹けば風」展では誰が何を達成するのか 」(2023年、豊田市美術館)
『美学辞典』「批評・解釈の役割ー作品の意味は作者の意図に還元されるのか」(美学会編、2020年、丸善出版)
『フィルカル』Vol. 4, No. 2 「観賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、 そしてネタバレ許容派の欺瞞」(2019 年 7 月 1 日刊行)
⚫️そのほか参考
ノエル・キャロル『批評について: 芸術批評の哲学』(2017年、勁草書房)
西村清和 編・監訳『分析美学基本論文集』(2015年、勁草書房)
アーサー・ダントー『ありふれたものの変容:芸術の哲学』(2017年、慶應義塾大学出版会)
アーサー・ダントー『アートとは何か: 芸術の存在論と目的論』(2018年、人文書院)
アーサー・ダントー『芸術の終焉のあと: 現代芸術と歴史の境界』(2017年、三元社)
石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』(1989年、中央公論新社)
石ノ森章太郎『マンガ日本経済入門』(1986年、日本経済新聞社)