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2020年12月11日 レビュー

展覧会レビュー|ら抜きの仕草

ふるまいと仕草

毛のような、棘のような、根のような、オーラのような、よくわからない不穏めいたものが体全体から生えた女たち。展覧会は、ダンス、ブルーヌードと、誰もが知るマティスの手になる「女の身体」をひいた、谷澤紗和子の切り紙とドローイングの小品からはじまる。マティスの踊る女たちの流れるような動きに呼応するかのような、流麗に流れる線は、メドゥーサの髪の毛のようににょろにょろと何かを発する隣の壺の腹へと続き、さらに壁面をわたってこんがらがったようにも、赤い糸を這わせたようにも見える二点の作品へと我々の視線を導く。

あ。

という瞬間が訪れる。美しい流れを描くその線は、「NO」といっている。思わず小さく息を呑み、壺の腹へと視線を戻すと、そこにあるのも「NO」の文字。一度気がつくと、もう後戻りができない。ここにあるすべての切り紙たちは、静かに、しかし明らかにノーを宣言している。自分のジェンダーに押し付けられた振る舞いに、そのポージングに、さまざまな合意し難い何かに。もぞもぞとした軽い居心地の悪さと、よくぞ言ってくれたと快哉を叫びたい感覚。

この相反する感覚間の往き来は、鑑賞者に完全に背を向けて奥の鏡に向かって組まれている、後藤あこの部屋を埋め尽くす陶人形の舞台の前で別の展開を見せる。ひとは往々にしてものごとの舞台裏を覗きたがるものだが、こうもそれを堂々と開陳されると、逆に困惑する。必死に鏡を覗き、そこに本来担保され、共有されるべき物語を拾おうとするものの、眼前の構造物によってその鏡像は遮られ、全ては虚像であるという事実を突きつけられる。そうして自分が一生懸命追おうとしている物語は、虚構と現実があやふやになった頭のおかしな男ドン・キホーテのそれだと思い至り、ひやりとする。

最後の展示室でテーブルを囲んで会話をする後藤の四体の半身像たちも、やはり刳り抜かれた裏面をあっけらかんと見せている。チェックのテーブルクロスを模したキャンバスから生えでたのか、あるいはその場に埋め込まれて出られなくなったのか、絵画と彫刻の間を行き来しながら、「それらしさ」を振る舞いつつ中身の空虚さを露呈し、そのことに構わずひたすら会話を続ける彼らは、アルベルト・モラヴィアの小説「無関心な人びと」の登場人物たちを想起させる。その淡々とした、しかし決定的な虚無感。

左手には、真ん中をくり抜いたキャンバスが別布で継がれた近藤佳那子の小さなペインティングが配置され、そんな彼らを静かに見つめている。絵画でありながら、張り合わせられた支持体によってコラージュのような軽やかさを獲得したこの小品は、画面下側のテーブルと椅子、黄色いチェックのピクニックマットらしきもの、そして牧歌的な草花のうえに脈絡なく浮かぶ、反復されたグラスのようなお椀のような図像が、後藤の不毛な彫刻と不思議な対話をなす。反復するイメージは女の子に姿を変え、部屋奥の大画面の絵画でも繰り返し描かれてゆく。フレームの存在を前提とする絵画の掟を逸脱し、白い地の存在を明確に活かしながら物理的に画面を拡張していくその手法は、絵画をドローイングの領域に持ち込み、近藤の制作において重要な鍵となる日常のサイクルや生活といった立脚点とより強い繋がりを生んでいる。

「ニュートラルの本質」とはなにか。その答えへのひとつの糸口は、ここで三者三様に表現されているように、ときに戦略的に、ときに自然な流れで、世の中に数多く存在する前提やきまりごとを超えてゆく先に見えはしないだろうか。

天井から床にまで届くおおきな谷澤のドローイングで、本展は締めくくられる。その美しい赤い線の流れが発するメッセージを瞬時に理解する術を、いまやわたしたちは獲得している。エレガントに、大声で、それはこう言っていた。

くそやろう。

西田雅希(インディペンデント・キュレーター)

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掲載写真/撮影|園田加奈