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2024年1月10日 レポート

レポート|「社会と芸術」9月2日(土)

実施日|9月2日(土)
テーマ|社会と芸術
ゲスト|服部浩之(キュレーター)

レクチャー

曖昧な境界線
レクチャーのはじめに、2枚の写真が紹介されました。1枚目は、人々が憩うビーチにそびえ立つ巨大な「壁」の写真です。海風などで変色した壁は、何かのモニュメントのようにもみえます。これは、メキシコのTijuana(ティフアナ)にある、メキシコとアメリカの国境を区切る柵です。明確に「境」を示しているこの柵は、強固に分断・分割を表しています。他方、もう一枚の写真では砂利と草地とが地面を分け、じわりと雑草が砂利との境界線を溶かしていくように侵食している様子が見てとれます。Tijuanaの「壁」のように明確に分つのではなく、曖昧になっていく、泡いとなって消えてゆくような、すなわち変化していくことを示唆するような境界線のあり方は、服部さんが関わってきたアートプロジェクトでの態度と共通するものがありました。それは、造園家であるジル・クレマン(1)が提唱する「動いている庭」の考え方とも合致します。「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」というクレマンの言葉は、服部さんの場や空間と関わる姿でもあります。
この「境界線」の考え方は、今回のレクチャーの主軸となった「公共圏」「コモンズ」に向き合うためのベースを形作るヒントとなりました。

(1)ジル・クレマン
庭師。ほかにも小説家など数多の肩書きを持つ。1943年生まれ。著作に『動いている庭』(みすず書房、1991年)があり、人が完全にコントロールするのではなく、自然の植物のありようそのままに進化を続ける庭のあり方を提唱する。

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公共圏(Publics)と共有地(Commons)
「社会と芸術」を考える上で、まずは語源から確認していきます。
「社会」とは、何かしらの共通目的や共通認識を持った集合体のことであり、英語ではsociety、「親交・友愛・絆」を意味するラテン語のsocietasから生まれ、「仲間・友人」を意味するsociusに由来します。sociusは形容詞で「分かち合っている、結び付けられた」という意味を持ちます。「芸術」は、英語でArt、ラテン語ではArs(アルス)と言い、ギリシャ語のτέχνη(テクネ)の訳語であり、自然と対局におかれる人間の技や技芸を指す言葉でした。これらの語源から「社会と芸術」とは、「ある共通目的や認識を持った集合体における、人間の技芸のこと」と考えることができます。服部さんは、ここからさらに「社会における芸術=公共圏(Publics)/共有地(Commons)をうむ技芸(The Art in the Society = Arts of making Publics / Commons)」と定義付けました。
Publics(公共圏)とCommons(共有地)も、語源から解いていきました。PublicsはPeopleと同じくラテン語のpopulus(人民、共同体)に語源を持ち、民衆・大衆の、公の、政府の、公然な、人目につくといった意味があります。Commonsは、com(共に)とmon(責任を負わされた)に分けることができ、形容詞では普通の、共通の、共有の、一般的なといった意味を持ち、名詞では、共有地、公園、入会(いりあい)権という意味を持ちます。もともとイギリスの牧草地を管理する制度に由来し、土地に対する共有権を指していました。そういったところから、Commonsは公共性に比べてより具体的にものや場所との関わりが強いと言えます(持島聡史・宇野重規編著『社会のなかのコモンズ 公共性を超えて』白水社、2019年参考)。
また、「公共圏」と「公共性」について斉藤純一『公共性』(岩波新書、2000年)を参考に考えてみると、公共性とは「1 official 国家的なもの」「2 commons すべての人に共通するもの」「3 open 誰しもに開かれているもの」という3つの要素があるとされ(1のofficialなもの(公文書など)の公開が限定される場合がある以上、2と3に対して矛盾が生じるという部分も孕んでいる)、公共性のなかにCommonsが含まれていることがわかります。斉藤は著書のなかで「公共圏」を特定の人による空間とし、「公共(的)空間」は不特定多数の人による空間とし、「特定の場所を超えた場」と定義しています。この定義は、次の「半公共圏」の考え方にもつながっていきます。

半公共圏の提案
服部さんは、公共圏やCommonsの語源、考え方などから「半公共圏(semi-public sphere)」を提示します。
網野善彦による『無縁・公界・楽』(平凡社、1996年)では、俗世の縁から離れるための場所として「駆け込み寺」などが紹介されていますが、そうした日常から縁を切れる場所が日本には昔から存在し、離縁するために女性が寺に身を寄せるなど、縁を切ることで自由を得ていたと言います。そうした世俗から離れた、縁が切れた場所で芸能が生まれてきたとし、縁が切れた状態ではさまざまな立場、身分の人が並列に存在することになります。ミシェル・フーコーが提唱する「ヘテロトピア(Heterotopia)」は「混在郷」と訳され、開かれた場所でありつつ、異なる相容れないものが並置される場所であり、ある特定の基準によって成立するような「他の全ての空間への異議申し立て」だとされています。誰もがアプローチできる場として開かれていながら、常の縁からは離れた場であり、異なる立場、背景、思考の人々が受けいれられ、その違いが並置されるような場、それが「半公共圏」であり、たとえば公園や広場、パブ、アジール(聖域)、寺院、原っぱ、コミュニティといったものがイメージされ、ヘテロトピアや無縁もここに入るでしょう。
服部さんは、こうした場所、異なるものが混ざる状態、混ざることができる状態である場所が、芸術の場であってほしいと言います。

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空間・場への感覚
服部さんが芸術の場として半公共圏を求める態度をとるのは、自身がこれまで芸術と社会に関わってきた態度を振り返ったときに共通した姿勢があったからです。改めて、服部さんがこれまでどのような興味関心や思考の変遷をたどってきたのかを確認します。服部さんはもともと建築を学び、大学院まで進学したものの建築家には向いていないと思うようになりました。建築からは、設計の仕方というよりも「風景」について学んだと言います。その場においてどのような役割を求められ、どんな景色をつくっていくのか、人やものが空間へどのように作用するのか、といったことに興味を持ったと言えるかもしれません。その後、山口県や青森県のレジデンス(作家が滞在して作品を制作発表すること)があるアートセンターでキュレーターとして若手の芸術家や地元の人々と関わるようになります。アートセンターに所属しながら、ルームシェアしていた一軒家を「Maemachi Art Center」として作家と地元の人が交流できる場としたり、展覧会を行ったりと、ある限られた人(作家本人やキュレーター、関係者)しか知り得ないプロセスやアイディアをより開いた場所で共有することを試行していました。フリーランスのキュレーターとしての活動では、よりさまざまな地域へ赴くようになりますが、どの場所に行っても「無理をしない」「そこでできることを柔軟な態度で行う」という、ジル・クレマンの「動いている庭」の考えた方に通ずる態度で取り組んでいきました。
建築、アートセンター、フリーランスキュレーターと、少しずつ異なる立場で社会と芸術に関わってきた服部さんですが、「公共」「コモンズ」を考えるということが継続されていると振り返ります。とくに「空間」への考え方としては、想定されていたところから超えて提示されることがおもしろいと言い、アーティストの空間の使い方などちょっとした変化で大きく空間が変わるところに興味が湧くと言います。
大学教員として美大に関わるようになると、現代美術というジャンルが思いのほかマイナーな存在であることに気づきます。漫画やアニメのようなものを嗜好する人がむしろマジョリティで、工芸やデザインに関心をもつ人もいるし、映像が好きな人もいる、ゆるやかに好みや興味関心が異なる人が同じ社会(大学)に存在することの面白さがあると言います。それは、「混在郷」のひとつのかたちとも言えるでしょう。

プロジェクト紹介・持田敦子「解体プロジェクト」
最後に、公共性とコモンズ、そして空間について考えるヒントとしてアーティストの持田敦子による「解体プロジェクト」(2023)が紹介されました。2020年に長野県飯田市に移住した持田さんは、もともと日本画を専攻していましたが、空間に介在し他者と協働する作品を制作するようになります。アトリエの近くにあった空き家の三軒長屋に魅力を感じ、これらを解体するプロジェクトを思いつきます。持ち主が不明だったり費用が足りなかったりで放置されている空き家は社会問題にもなっています。持田さんは持ち主を探し、直接交渉をし、解体の許可を得ます。さらに、大工さんや解体業者とも相談を重ね、プロジェクトへの理解を得て共同作業として解体をスタートさせました。三期にわかれて解体工事が実施され、一期工事と二期工事が終了した段階で持田さん自身が現場をツアーするかたちで解体の過程が公開されました。最短時間で速やかに壊されるいわゆる合理的な解体とは異なり、解体行為自体が創造行為となる、壊すことと作ることの両義的な関係について探究するプロジェクトでした。壁面や床、屋根を斜めに切って架け替えるなど、普通ではやらない創造的な解体を専門家たちと実践することで、家の構造や成り立ちも顕になる興味深い空間が実現していました。
服部さんは第二期の公開時に実際に目にし、家屋を解体する、というどちらかというと否定的に捉えられがちな行為が、他者と協働してすすめていく創造的な行為になり、個人のどうにもならない崩壊過程の空き家が豊かな公共空間に変容されていることに驚いたと言います。普段、アートには関わらないような人々が、解体というプロジェクトに面白みを感じ、一緒に活動していく。これ自体がアートが持っている社会との関わり方の一つであり、アートでしかできないことではないか、と服部さんは考えます。

ディスカッション

- 作品・展示について
服部さんのアートセンターでは作家のアイディアや制作プロセスが開かれていたという話に関連して、「実際に制作されたものよりもそのプロセスの方がおもしろいのか」「作家の意図(プロセスをみせる・みせない)はどう汲むのか」といった質問があがりました。これらについては、「展示としてどうみせるのか、みせるべきか」「作家が何を見せたいのか」によって変わるとし、レジデンスの場合は実験的な意味合いが強いので、そうした際にはそのプロセスが面白いこと、示唆的なことがよくあると言います。ただし、例えば河原温のように展覧会やカタログなどで作家自身のポートレイトを一切出さず、本人の存在を表に出さず、完成した作品のみを提示する作家もいます。そういう作家はプロセスを開示することを拒むでしょうし、誰もが多くの人にプロセスを開示する必要はないとも言います。作家が大事にしていることを尊重しつつ、その場では何が求められているかを考えることも必要でしょう。
また、「作品の背景をどこまで伝える(開く)べきか」という質問に対しては、複数のレイヤーを担保すべきとして、作品背景や知識がないと作品理解が深まらない、伝わらない、作品世界に入り込めない、といった場合には情報を提供する必要があり、誰かの思考の押しつけにならない限り工夫ができると言います。

-プロジェクトについて
持田さんの作品は他者と協働するため、高いコミュニケーション能力が求められそうですが、実際にプロジェクト作品制作を行う人のなかには、コミュニケーション能力が高いとは言えない人も多くいると言います。しかし、やりたいことがはっきりとあり、必然性がある人は、相手に伝えるための力を持つことができるため、コミュニケーション能力の有無は関係ないのではという言葉には、救われた人もいるのではないでしょうか。

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-社会、公共性について
社会と芸術、相互の影響力についての質問が出ました。社会が芸術に影響を与えているのは現代アートをみれば明らかです。芸術が社会に与える影響については、たとえば「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由・その後」(2)で展示された作品にみられるように、普通の状態(普段関わっている場の中では)言えないことや伝えられないことを表現することによって、社会に対してアクションを起こし、それが社会変革をもたらすこともあります。社会の課題・問題・矛盾などに対してアートはいち早く反応していると言えます。
公共性に関しては、公共=広く開かれることによって、芸術性が弱まることもあるのでは、という意見が出ました。公共性が誰にも伝わる、100%受け入れられるものだとすると、それはプロパガンダ的に利用される可能性が出てきます。すべての人に受け入れられるものではない、ぶつかり合うことができる場というのが、公共空間=芸術がある場であるべきと改めて服部さんからのコメントがありました。
また、ギャラリーには公共性があるのか、という質問では、その場が持つ使命・目的によって、背負うべき公共性(責任)が変わると言います。同じ作品であっても、発表される場によって捉えられ方も変わります。では、オープンアトリエには公共性はあるのでしょうか。開いた時点(人が集まってくる場となった時点)で、公共性が生まれると言えますが、それはどの程度開くかによっても変わり、開く側の考え方によると言えるでしょう。

(2)「あいちトリエンナーレ2019」内での企画の一つ。検閲や忖度などによって公開を中止されたり規制されたりした作品を集め、中止や規制の理由とともに展示した。慰安婦像や天皇をモチーフとした作品に批判が殺到し、電凸など抗議が過激化し、公開3日で展示中止となった。

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さいごに
「社会」と「芸術」というとても大きな二つについて考えを巡らせる時間となりました。社会のあり方を公共性とコモンズ、そして空間という観点から考え、芸術が生まれる無縁の場という考えから、芸術が生まれる社会の形についてもみてきました。服部さんからは、いくつかの視点から公共性、コモンズ、空間について考えるヒントを示され、参加者に社会と芸術について考えるとっかかりを作ってくれました。
社会が芸術に大きく影響していることが自明である一方、「芸術が社会とどう関わっていけるのか」ということを考えること自体が、「社会と芸術」について考えていくことになる、このことを念頭に置いて、長い時間をかけて考えたい、心と頭にとどめ置きたいテーマとなったと思います。

レポート|松村淳子


参考文献

ジル・クレマン著、山内朋樹訳『動いている庭』(みすず書房、1991年)
持鳥聡史・宇野重規編著『社会のなかのコモンズ 公共性を超えて』(白水社、2019年)
斉藤純一『公共性』(岩波新書、2000年)
網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社、1996年)