今、を生き抜くアートのちから

LEARNINGラーニング

ガイドツアー

「あいち2022」のキュレーターやボランティアが案内するツアーや、複数の言語によるツアーを実施しました。また、赤ちゃんとその家族、視覚や聴覚に障害のある方など様々な人々を対象にしたツアーも行いました。

「ガイドツアーをふりかえる」

現代美術のキュレーターで、愛知県美術館学芸員の中村史子さんと、ラーニングのキュレーターの二人が、実際に行ったツアーを振り返りながら、芸術祭におけるツアーや、芸術鑑賞のあり方について話し合いました。

実施日時|2022年12月2日(金)
実施方法|オンライン
 参加者| 中村史子(「あいち2022」キュレーター(現代美術)、愛知県美術館主任学芸員)
山本高之(「あいち2022」キュレーター(ラーニング)、アーティスト)
会田大也(「あいち2022」キュレーター(ラーニング)、ミュージアム・エデュケーター)

会田)中村さんは、普段は愛知県美術館(以降、美術館)で働いていますが、どのようなツアーを行っていますか?

中村)鑑賞ツアーとしては、20名以上の団体向けのものがあります(*1)。ツアー以外だと、展覧会に合わせて子供向けや視覚に障害のある方との鑑賞会などを実施しています。

会田)美術館でのツアーと、芸術祭のツアーでは、違いを感じますか。

中村)美術館では学校からの申込が一番多く、その他では美術館巡りのような旅行会社主催のツアーが多い印象があります。一方、芸術祭の場合は、参加者同士が知り合いではない一期一会のツアーも少なくなく、その意味では層が広い気はします。また、基本的に、芸術祭のツアーに参加する人は、知りたい、学びたいという意欲があるので、やりやすい気もします。

山本)ツアーという鑑賞の仕方は独特なかたちとも言えますね。価値の確定した作品を鑑賞するツアーと、(これはアート作品を鑑賞することの醍醐味でもあるのですが)価値が確定していないものも一緒にある芸術祭のツアーがある。そう考えた時、ツアーシリーズに対してどういう問題意識を持ってやっていたのでしょうか。

中村)芸術祭で私が担当したツアーのなかで多かったのは、様々な視察などでした。美術関係者の視察の場合は、美術という共通した素地や言葉があるから比較的話しやすいのですが、地方自治体の方など必ずしも美術を専門としない方々をご案内する場合は、そもそも美術用語などの共通の前提がない。その場合は意識的に、美術やアートを主語にせずに話します。むしろ、作品が扱う難民問題、環境問題、あるいは引きこもりの問題とか、社会的なイシューを前面に出すとみんな興味を持ってくれますね。

会田)なるほど、社会課題の方が共通言語になる。

中村)そうだと思います。また、ルールが明確なものは説明がしやすいし、鑑賞者にすごく興味を持ってもらえる一方、感覚的な作品は難しかったです。

山本)本当は感覚的な作品でも、同時代の同じ社会に生きている人が表現しているので、どの作品も社会的な問題や課題をはらんでいるとも言える。だから実は「現代美術」は近代以前の美術よりも私たちに近い。だから「あいち2022」では様々な形でのアートとの出会い方を提供し、世界の見方に関する新たな視点を得る体験につながっていくためのラーニング・プログラムを目指しました。

中村)そうですね。社会的なイシューだけだと新聞の記事やニュースみたいになってしまいますね。

会田)社会的なトピックを扱う作品は増えているけれど、一方的な正義のモノサシではない、より個人的な視点から課題と向き合うような視点も、美術ならではの表現ですよね。

中村)印象的だったのは、渡辺篤さんの作品です。渡辺さんご自身の引きこもりの経験から出発したプロジェクトですが、雑に捉えようとすると「引きこもりはよくない」「孤独はダメだからつながろう」みたいな単純化された話に集約されがちかと思います。でも、渡辺さんの目指すところは実はそうではありません。むしろ、「引きこもってもいい」し、「孤独でも社会のなかに居場所を見つけよう」というメッセージも充分に読み取れる作品なんです。なので、従来の大きなメディアには難しい繊細なことやニュアンスも、ツアーでは伝えられるんですね。

山本)みんなが同時に現代という社会に生きているけど、作家は作家ならではの視点を作品として提示している。これは現代アートを観る醍醐味とも言えますが、作品は社会問題について話し合うプラットフォームでもあるし、彼なりの視点みたいなものは、結論とか答えじゃなくて、僕はこう感じた、こう思ったということであり、それによってどうするかというアプローチの仕方を表している。
いずれにしろ、勝ち/負け、損か得かみたいな相対的な価値の提示だけじゃないアートが、もうちょっと広がっていくといいなと思うんですよね。勝ち負けって、仕組みが安定している時には有効な判断ですが、社会が変化している時には何が勝ちなのか、何が得なのかは曖昧になる。そんな世界を生きていくうえで、アートによって養われる力はより必要とされると思うんですよね。

会田)個人的な表現に対して個人的な応答ができるところがツアーの醍醐味なのだと、今の話を聞いていて思いました。

中村)あと、今回の芸術祭の試みとして私がすごくいいなと思ったのは、英語以外の多言語ツアーです。コロナによる入国制限措置などで、海外からの来場者が少ないなかにあってもこれを実施するということは、国内に住んでいるけど日本語が母語ではない人へのアプローチを意味します。
各地でよく国際発信が推奨されていますが、そこで思い浮かべられがちなのは、海外から文化的な人たちを呼んでくるという曖昧なイメージや、「日本のコンテンツに海外の人たちが興味を持ってくれると良いな」という淡い期待のように感じます。しかし、そもそも、愛知県は日本で2番目に外国籍を持った住民が多い県なんです。

会田)海外にルーツを持ち愛知県に暮らす人は、県民全体の3%に及ぶと聞いて驚きました。

中村)まずは、ごく近くに住んでいるけれど日本語を母語としない人にアプローチするのも、本当に重要な国際発信ではないかなと私は思います。

会田)実際には英語に加え、スペイン語とフランス語のツアーが実現しました。でも理想的にはもっと多くの言語でできると良いですね。

中村)ですよね。多分人口の比率からすると、中国語系と韓国語、ポルトガル語などが多いと思うんですが、それらの言語を使いこなせる方が、芸術祭のガイドボランティアのなかには十分にいないという点も、現状を一種、表しているような気がしますね。
あと、すごく現実的な実装方法として、ボランティアの方から簡単な日本語と簡単な英語でのツアーというアイデアをいただいたんです。ポルトガル語で100%説明するのは無理だけど、日本語と簡単な英語でなら何とか通じるということもあると想像します。一方、解説の文章はアカデミックな内容だし、少ない文字数に情報を詰め込もうとしているから、ある程度語学力や読解力がないと読みこなせないと思うんですよね。日本語であれ英語であれ。
でも、そこまでじゃなくてもいい。河原温の作品なら「30年間電報を送っています。ここにあるのは、彼が世界中に送った電報です。どれも『I AM STILL ALIVE』と同じ言葉ですよ」でも伝わる。

会田)すごく示唆的です。単純に言語だけの話ではない。伝えようとする姿勢の問題だったり、相手の立場に立つという基本的な態度の問題だと思いました。

中村)ブロークンイングリッシュとやさしい日本語を使って、展覧会や美術鑑賞そのものに親しんでもらう。一緒の時間と場所を過ごすことが目標だったら、やりたい人はいると思う。

山本)芸術祭のラーニング・プログラムとして用意しないといけないものは、言語が上手な人じゃなくて、アートを中心にいろんな人がいろんなかたちで参加できる場所をつくることだから。

中村)私からも質問です。対話型鑑賞などでは、お客さんに対して特定の見方を押し付けてはいけない、決まった情報を最初から渡さないというのが一つのセオリーとしてあります。しかし、明らかに私の意図するところとは異なるコメントや意見も出る可能性はあります。例えば、マイノリティを持っているアーティストに対して鑑賞者が「可哀想だ」という感想を持った場合、私はそれを可哀想だけに収めてほしくない。しかし、その点をどう伝えるのがいいのかを、知りたいです。

会田)例えばさっきの渡辺さんの作品で、「引きこもりはよくないよね」という結論に至った人がいたとしても、前提として、それはそれで一つの意見として尊重はされるべきかなとは思います。対話型鑑賞では、作品について脳が動き続けている状態をつくることが第一です。その結果、「引きこもりはよくない」という結論が出たとしたら、それはこれまでその人がそういうことを強く刷り込まれていたという事実が露呈しただけなんだと捉えます。
次にやれることは情報の提示です。渡辺さんの作品では、「自分自身が引きこもりだった経験がある人や社会とうまく関われなかった経験がある人にとっては、共感のよすがになることもある」といった話を提供することは、別の視点の提示として実際に行うパターンかと思います。

山本)作品を鑑賞する時に放っておいてほしい人も一定数いるなかで、ツアーではないかたちでの作品とのオルタナティブな出会い方があってもいい。ぜひあるべきだし、それがどんどん展開していくことで、需要もあると思うんです。作品との出会い方、鑑賞の仕方はいろいろあって全然構わないし、むしろいろいろある方がいい。そういう点では対話型鑑賞の運用の仕方については今後も考えていく必要があると思います。

中村)ちょっと脱線するんですが、京都の龍谷ミュージアムで、日本の博物館や展覧会の歴史について紹介する企画展をやっていたんです。そのなかで、明治時代に行われたお寺所蔵のありがたい宝物の展覧会の会場に、説教や説法を禁ずる注意書きがあったことが紹介されていました。たぶん、偉いお坊さんの書いた書や仏画などの前で、知識のある人が「これは誰々の書でこう書いてある」とか、「この仏画が……」とか、勝手に対話型鑑賞をしちゃったことがあったんですよ。それで日本の博物館や展覧会は、ごく最初の時点で、説教・説法の禁止という、展示物の前での会話を禁止するルールができた。

山本)めっちゃおもろい。

会田)作品にまつわる内容の蓄積が鑑賞者側にもあって、作品がそれらを引きだすトリガーになっている感じですね。

中村)ただ、さっき山本さんがおっしゃった通り、その場ですぐ対話できるタイプの人と、心のなかではめちゃくちゃいろいろ考えたり、自分の思いを持っているけど、第三者に対してそれを言えない人がいると思うんですね。後者のタイプの人は多分、感想をSNSなどに書くと思うんです。彼らの感想を共有したりするプラットフォームを展覧会側が用意する方法には、どういうものがあるんでしょう。今回のラーニング・プログラムのなかでは、みんなのコメントを貼っていくコーナー(インターミッション・トーク)があったと思いますが、現象的だけれどもあれが一番シンプルでいいのかな。

会田)インターミッション・トークの仕組みとしては、単に感想を羅列するものではなく、他者への投げかけみたいなものが前提となっていて、答えるきっかけも他者からの質問に応じる形になっていました。あとは、もっとツアーの形式を広げてもいいかもしれませんね。美術館の守衛さんと一緒に見るツアーとか。

山本)ガイド役が守衛さんということですよね。それとは違いますが、実は学芸や事務だけではなく清掃や守衛など、芸術センターで働くすべての人を対象としたツアーも今回は計画していたんですよ。

中村)「100kg以上の重い作品だけを見るツアー」とか、「どうやって運んだんですか」とか、「経路はどう確保しましたか」とか(笑)、そういうのもいいかもしれないですね。

山本)できるところからちょっとずつやっていきましょう。

中村)そうですね。私もこれもできる、あれもできると思いました。

会田)夢は広がりますね。

(構成=近藤令子)