LEARNINGラーニング
論考
「アートのサンバ・スクールは可能か?」
杉田敦
アートと主体性
アートという場において主体性というものを手にすることはできるのだろうか。
馬鹿げたことを言っていると思われるかもしれない。こうした問いかけには、否定的な意味を読むことができる。現時点では主体性は保持できていないが、そもそもそれは可能なのか、というように。確かに、そうした想いがまったくないわけではないが、悪戯に死を宣告する扇動家のように振る舞うことはしないつもりだ。そうつまり、実現できるのではないかと、真剣にその可能性を考えてみたいのだ。
いやすでに、そして常に、アーティストやキュレーターは、主体的に制作やキュレーションを行ってきたのであり、そもそも、アートという場では主体性がなければ何も始まらないではないかと思われるかもしれない。確かに、その通りなのだ。では、来場者はどうだろうか。来場者は主体性のある存在としてそこに立つことができているのだろうか。これもまた、もちろんだと思われるかもしれない。彼女や彼は望んだからこそそこに来ているのであり、当然、嫌なら足を運ばなければよいだけのことだ。むしろ美術館や種々の芸術機関は、そうした来場者による厳しい選択の洗礼を受けている。
では、彼女が彼らが足を踏み入れた空間のなかではどうなのだろうか。漠とした空間のなかで、作品と向き合ったとき、来場者は完全に主体的な存在としてそこに立つことができているのだろうか。彼女たちは何かを強いられてはいないだろうか。彼らは何か押しつけられたりしてはいないだろうか。あるいはそのとき、彼女たちはそれを感じ取り、ひらりと身をかわすことができているだろうか。彼らはそれを嫌って、振り解こうと抗うことができているだろうか。
ここでの考察はそうした問いに端を発している。そして、そうした問題と向き合っていく時、手がかりを与えてくれるもののひとつに、ラーニングという言葉によって示される種々の実践があるのではないかと考えている。もっとも、残念なことにここでは、そうした仮定の是非についての結論が導かれるようなことはない。そもそもその問いは、即座に結論が出せるようなものではないのだ。おそらくそれは、手がかりさえないまま、ここしばらくの間、辛抱強く携えていかなくてはならないものなのだ。かろうじて現時点でできることがあるとすれば、なぜそう仮定するに至ったのか、覚束ない足取りを辿ってみることだけだろう。最初にいる場所から見えるのは、美術を形成している時間の断続性だ。ラーニングを望遠しながら、まずはそこから、自身のなかに徴されている経路らしきものを辿っていきたい。
閲覧室が囁くもの
美術館で行われる展示も、世界各地で開催される200にも達すると言われる国際展も、時間的な制約を受けている。企画され、準備され、そして実施される。しかしそれらは常に、始まりがあり、終わりがある。そうした束縛から逃れることができないのだ。
もちろんだからこそ、時間的な制約があるからこそ、人々はそこに特別なものを見ようとする。芸術表現は常に、そうした特別な時間のなかのものとして、輝いたり、讃えられたり、貶められたりする。もちろんそれは、記録され、想起され、言及される。けれども、ヴァルター・ベンヤミンが、いま、ここ、というアウラは失われたと説き、誰もがそれに頷いたにもかかわらず、依然としてアートは、ある特定の時間によって、またそうした時間の断続的な積み上げによって形作られている。
もっとも、アートに関わる人々は、必ずしもアートがそうしたものではないことを十分過ぎるほどよく知っている。それぞれのポジションに、それぞれの連続する作業があり、継続的な考察があり、そして持続的な相互作用がある。そのことを、身をもって知っているのだ。
けれどもなぜ、アートの表面は、断続的な特異な出来事の連鎖によって形作られているのだろうか。いや、そう見えるのだろうか。あるいは逆に、こう問うこともできるのかもしれない。それらを下支えしている、連続的な作業、考察、相互作用は、なぜ不可視なものになってしまっているのかと。
随分と大仰な話をしてしまっているような気がするが、しかしそれは、ここで考えていきたいラーニングという実践が、連続的で持続的な性質をもつためだ。それは、断続的に生起するものではなく、連続して実践されるものだ。そうしたラーニングという視点を意識するとき、美術を貫く時間のあり方は、どうしても異質なものに見えてしまうのだ。
印象に残っている出来事がある。ヨーロッパのアート・センターをリサーチしていたときのことである。
ロンドンの調査対象の一つに、1960年代から興味深い展示を重ねていたカムデン・アート・センターがリストアップされていた。ひと通り展示を見終えて、館内をあてもなく巡っていたときのことである。施錠された一室があり、廊下から内部を覗くことができた。テーブルなどは壁際に片付けられ、中央に丸くスツールが並べられている。
それはとりたてて特別なところのない、ワークショップやディスカッションのためのスペースのように思われた。おそらく、想像通りのかたちで使われていたはずだ。けれども、驚かされることになったのは、入口の扉の横に掲げられたパネルを確認したときのことだった。“reading room”、おそらく閲覧室のことだろう。またパネルの下には、日時の書き添えられた書籍リストがあり、どうやら読書会の告知のようだった。
たったそれだけのことなのだが、なぜか混乱したことを覚えている。おそらくそのとき、アート・センターに対して、収蔵作品を持たない展示スペースで、展示関連のプログラムにも積極的に取り組んでいるという程度の定型の理解を抱いていたはずだ。調査し、学ぼうとしていたにもかかわらず、あらかじめ想定していた理解があり、それを確認するというような、褒められない姿勢で訪れていたということだろう。
しかし、その部屋の名称と、そこで行われている読書会という実践は、そうした想定を遠くに追いやり、様々なことを考えるきっかけを与えてくれたのだ。その部屋では、ある意味で継続的な活動が営まれていた。いや、そう思えた、あるいはそう誤解することができたと言ってもよいかもしれない。
実際に告知されていたイヴェントが、どのようなかたちで運営されているのかを確認したわけではない。こう言ってよければ、実態がどうであるかは問題ではなかったのだ。そこでのプログラムが示唆していた継続性と、閲覧室という、継続性を暗示する名称が、ささやかな意識の変化をもたらしてくれたのだ。実態がどうであれ、その場所に漂う継続性らしきものの気配が、美術館やアート・センターなどを貫いている、展覧会の生成と消滅によって形作られる時間が、異質なものであることを突きつけてきたのだ。あるいは、そもそも人間の生活が、継続的な時間の流れに従うものであることを考えれば、アートを形作っている断続的な時間が、非日常的な、遠くかけ離れたものであることに、あらためて気づかされたということだろう。
またそれと同時に、奇妙な感覚に囚われたことも告白しておきたい。その感覚を、どのように言い表すことができるのだろうか。そこに参加する人々が、能動的で、主体的な存在として感じることができたとでも言えばよいだろうか。不確かな印象のようなものに過ぎないのだが、確かにそう感じられたのだ。その場所で感得された継続的、持続的、連続的な時間の流れが、そこに関わる人々が手にしていると思しき主体性を、突如として、際立たせたのだ。
美術館と図書館
カムデン・アート・センターは、もともとは図書館で、イギリスの労働者のための生命保険の創設者として知られ、のちにロンドンの北郊、ハムステッドの初代市長を務めることになる、ヘンリー・ハーベン卿によって1897年にハムステッド中央図書館として建設されている。第二次世界大戦の爆撃をなんとか耐え凌いだ図書館は、1965年にアート・センターにその機能を変更し、1967年に現在のものに改名されている。そうつまり、“reading room”という名称は、図書館時代の名残りに過ぎないかもしれないのだ。
しかしだとすると、先ほど触れた個人的な印象は、美術館と図書館による性質の違いに依るものなのかもしれない。確かに、美術館の時間の流れが、開催されるごとに性格の異なる展示によって記される断続的なものであるのに対して、図書館のそれは、変化は乏しいものの、一定の機能を淡々とこなす継続的な流れとして理解することができる。
一方、主体性に関しても、両者の比較は示唆に富んでいる。美術館の来訪者は、受動的な享受者として認識されているが、能動的なアクターとして認められることはない。美術館のアクターは、アーティストでありキュレーターではあるものの、どう考えてもそこを訪れる人たちではないのだ。そこは、何らかのかたちで表現されたものを受け取る場所であり、あるいはそれを計画した背景や思想を感得するための場所なのだ。訪れた人々が、あらかじめ何らかの意図のもとに設計された相互作用のなかに組み込まれるということはあるかもしれない。けれども、そうした場合にも、そこでの主導権が彼らの手に握られるということはない。
それとは逆に、図書館の来訪者たちには疑いようのない主体性が感じられる。彼女や彼らは、何かを携えてそこにやってくるわけではない。何かをそこで発表するわけではないし、何かをそこで実践するわけでもない。しかし、そうであるにもかかわらず、彼らがそこで何かを目にし、何かを読み、何かを考える、そうした行為のすべてが、能動的で主体的な印象に包まれるのだ。
もちろん、美術館に出かけていく場合にも、彼らはそこで何かを目にし、何かを考えることにはなるはずなのだが、どうしてもそこには、何かを見せられ、何かを考えさせられるという、他動的な印象がつきまとう。またそこでは、多数派であるはずの来訪者よりも、彼らが目にし、耳にするはずのものを手がけた制作者たちの気配が勝っていたり、あるいはそうした制作者たちに声をかけ、組み入れ、そして配置した学芸員の気配が濃厚なのだ。そうした気配の前で、来訪者の主体性はますます薄らいでいくことになる。
閲覧室と展示室という名称の違いは、そうした印象をより強く刻印することになる。閲覧の主体は、言うまでもなく図書館の利用者だが、展示の主体は、作品の制作者や展示の企画者であり、言葉自体を受動的に捉えたとしても、せいぜい展示されている作品止まりということになる。一方では来訪者は主体性のある存在として招き入れられ、一方ではその空間で主体的に振る舞うことが認められた他者の行為の結果を、受動的に受け取る存在と見なされる。一方では主体性が確保され、一方ではそれが奪われる。この違いはどこから来るものなのだろうか。
飼い慣らされた主体性
それぞれの起源に遡って性質の違いを検討することも意味はあるが、ここでは、今日の相違に注目することに力を注ぐことにしよう。
かつて、ウンベルト・エーコは、作品が本質的に持つ「開かれ」という性質を検討するなかで、アーティストと鑑賞者を、生産者と享受者として分析を行った。結論を先回りすれば、生産者と享受者は、厳密にそれぞれの立場に分かれているわけではなく、両者は相互に密通している。享受者という受動的な立場を刻印されているはずの人々は、実際には、生産されたものを、その都度、自由に解釈するというかたちで生産を行なうことができる。一方、本来生産者とされる人々も、享受者によって生産された作品の新たな解釈の前で、享受者の立場に立たされることになる。こうした理解は、例えば、対話型鑑賞というようなかたちへ展開することになるが、そのことによって生産者と享受者の関係に、決定的な変化がもたらされるということはない。
対話型鑑賞は、アメリア・アリナスと共に注目を集める鑑賞方法だが、日本に較べて海外ではそれほど大きく採り上げられることはない。対話型鑑賞と同一視されることの多いVTS(Visual Thinking Strategy/視覚的思考法)は、対話型鑑賞を支えるものであることは間違いないが、本質的にはまったく別のものと捉えるべきだ。VTSは、非言語的な思考方法であり、対話型鑑賞はそれに基づいてはいるものの、美術作品の鑑賞方法に都合よく組み入れたものに過ぎない。
対話型鑑賞は、本質的には自由な発想による、鑑賞者自身の独自の解釈という生産を許すものではあるはずなのだが、けれどもそれは、対話という鑑賞を共有するための手段によって決定的に損なわれることになる。個人の行う解釈の生産は、そもそも対話や共有と馴染むものではなく、むしろそうしたものから独立していることによってこそ、自由度が確保されるものでもある。対話型鑑賞におけるファシリテーターは、どれだけ観賞者の生産を損なわないように注意を払っても、結局のところ、対話という場に人々を連れ出すことで、それを狭め損なってしまうのだ。対話型鑑賞は、鑑賞者の主体性を尊重するような素振りを見せながら、巧みに、その主体性を奪うことになる。
今回の「あいち2022」におけるラーニングでも、ガイドツアーでは対話型鑑賞が謳われている。作品の見方や理解、観賞体験を広げ、深めていくという謳い文句は、確かに耳障りのよいものだ。しかしここで前提にしているのは、対話によってそうした効果をアフォードすることができるという理解なのだ。しかもその対話は、友人との間で交わされるような、完全にフラットな状態で行われる意見交換でもない。キュレーターやファシリテーターという、あらかじめゴールや構造を理解していると自称する人間との間で取り交わされる対話なのだ。確かにそこで、発見されたり、深められたりするということもあるのかもしれない。けれどもその時でさえ、頼りなく鑑賞者の主体性は奪われていることに注意しなくてはならない。
そこは、完全に自由に走り回ることのできるドッグランではないのだ。リードを手にした飼い主の前で、尻尾を振るとか、遠吠えするとか、尻込みするというような、ある程度予定調和な行動を選択できる、そんな自由を許されているに過ぎない場所なのだ。結局、エーコの言う享受者の立場にいる人々は、主体性を弱められながら、展示空間を回遊するだけの存在から踏み出すことができない。美術館における主体性の問題は、想像以上に深刻な問題なのだ。
教えることと学ぶこと
ラーニングと似た言葉に教育、エデュケーションがある。教育の場も、もちろん主体的であるべき場所なのだが、残念ながらそこもまた、参加者の主体性を減衰させている場所でもある。
学校に通う人々の主体性がないわけではないのはもちろんだが、その施設が目的とする機能を考えたとき、それを担う主体がそこに通う多数派の手にあるようには感じられない。図書館のように、その利用者が、書籍や新聞、雑誌や映像、音源などを渉猟する主体であるというように確信することができないのだ。エデュケーションということを考えるとき、そこに参加する最大多数であるはずの存在、つまり生徒、学生、参加者など、教育を受ける立場の人々の主体性は、どうしても減退しているように感じられてしまう。どこか受動的、他動的で、受け身の存在として見えてしまうのだ。
もちろん、そもそも受動的で、規定の教育プロセスを通過するために、積極的とは言えない姿勢でその場にいるという人も少なくないのかもしれない。けれどもその場合でさえ、基本的には、そこにいること自体は参加者の主体的な意志によるものに違いない。しかし、そうであるにもかかわらず、その場で際立つのは、あくまでも教育を授ける側の人物であったり、体制、あるいはプログラムなのだ。教育を受ける側の主体性は、それそのものとして扱われる機会を失っている。
強制されて仕方なくそこにいるという場合から、明確な目的を持ってそこにいる、つまり主体的な存在としてそこにいる場合まで、参加に関する主体性は、幅広いグラデーションを持つものであり、そのこと自体は教育の場でもはっきりと認識されている。けれども、そうした主体性と、あるいはそうした主体性による実践と、正面から向き合うということは想定されていない。主体性の度合いは、教育システムやプログラムの設計の際に参考されることはあるが、その内容と向き合おうとする対応は考慮されていないのだ。
個々の主体性の度合いをシステムに反映させる、そうした類の扱いは、ある種の制御や統治、政治を意味する。つまりそれは、制御上の一つの変数として処理されるということを意味するに過ぎず、主体性そのものが、それを保持する存在の意志として、正対されるということとは違うのだ。
一方、図書館では、来場者の主体性の度合いが勘案されるようなことはない。そこでは、目的もなくそこを訪れて、あてもなく書棚を彷徨ってみることも、インターネットでは確認できない仔細事の手がかりを求めて、資料を堆く積み上げることも、時間つぶしに新聞や雑誌に目を通すことも、いやさらには、資料ではなくそこのカフェ目当てに訪れることも自由なのだ。
確かに、もう少し雑誌コーナーを充実させようとか、カフェのメニューを工夫してみるとか、書籍検索を改良しようなど、特定の目的でそこを訪れる人々のための対応に来場者の主体性が利用されることはあるかもしれない。けれども、来館目的が、直接、ある種の作用をもたらすものとして利用されるようなことはない。
しかし、そうした違いがあるにもかかわらず、教育の場と図書館が、対極のものなのかというとそういうわけでもない。教育の場の多くが図書館を併設することが多いのも、両者の密接な結びつきを示している。また、図書館で行われている作業の多くが、教育の場に還流していくであろうことも容易に想像することができる。
しかし、そうであるにもかかわらず、主体性に対する印象は、両者では決定的に隔たっているのだ。教育における主体性は、もちろんそれだけではないのだが、教育を授ける側にあり、図書館における主体性が、そこに足を運ぶ側にあるという違いは埋めることができない。
それは、教育が旨とするのが「教える」ことであり、図書館の収蔵、閲覧が「学ぶ」ためのものであることに由来するものであり、つまりは「教える」ことと「学ぶ」ことの相違に源を発するものなのかもしれない。もともとほぼ同じ語源的な流れを持つ両者だが、「示す、宣言する」などを意味する‘teach’と、「勉強する、知識を得る」などを意味する‘learn’の違いは決定的だ。前者の行為が、示し、宣言する対象を前提としているのに対し、後者は、他の人から知識を提示されることはあるとしても、それを呑み込み、自分のものとする学ぶという体験に関しては、あくまでも一人だけで完結するものなのだ。前者の主体性は、その性質からして、対象となる人以外の特定の人々に限定されたものであり、一方後者の主体性は、可能性としてはすべての人に等しく開かれている。
またこの関係を、先ほど述べた展示室と閲覧室の関係と照らし合わせてみてもよいだろう。展示室の主体性は、教育における主体性に近く、限定されているが、閲覧室における主体性は、学ぶ立場の主体性に近く、来場者すべてに等しく開かれている。表面的には似通い、近接しているように見える実践だが、両者のこうした相違は記銘しておかなくてはならない。
サンバ・スクールの方へ
教育、あるいは学びについて考えるとき、必ず参照するようにしている人物がいる。人工知能の研究者で、プログラミング言語LOGOの開発者として知られる、南アフリカ出身で、スイス、アメリカで研究を行ったシーモア・パパートである。パパートは、子供の思考の発達する過程を研究したことで知られるスイスの心理学者、ジャン・ピアジェとの共同作業を経験し、彼の構成主義的な学習理論を、批判的なものも含めるかたちで敷衍し、コンピュータ教育のあり方を探求したことで知られている。
1960年代にMIT(マサチューセッツ工科大学)に赴任したパパートは、数学教育の開発に携わるようになるのだが、彼の考え方は、彼の開発したLOGOを通して考えるとわかりやすい。LOGOは、現在では忘れられた言語とも言われているコンピューター言語で、発達心理学や、人工知能の知見を集約した教育用プログラミング言語として、発表時には大きな注目を集めている。LOGOを一言で説明するのは難しいが、他の言語のように敷居が高くなく、少しの理解で始めることができ、またその結果を、即座に確認できるようになっていたため、失敗しても、簡単に問題を修正することができるようになっていた。そう、つまりそれは、学習に重点を置いて設計されたものだったのだ。
LOGOの特徴を象徴するのが、タートル・グラフィックスと呼ばれる描画システムで、命令はタートル(亀)との交流というかたちで実行される。タートルはカーソルのようなものだが、もともとは実際に移動し、描画することができる小型のロボットだった。LOGOは、このロボットに命令を伝え、手続きを学ばせるのだが、実際には、操作する人間自身が、幾何学のあり方などに気づき、学んでいくことになる。
コンピューターで何かを描こうとするとき、あらかじめ実現したいイメージがあり、例えば頂点などの座標値を入力するなどのかたちで実行されるのが一般的だが、タートル・グラフィックスは奇妙な方法でそれを実現した。まず、目の前の描画ポイント、タートルに集中し、そこからどちらの方向に向かうのか、どれだけ遠くまで向かうのかを考え、そのための指示を与える。描画は、この手続きを繰り返すことで実行される。全体像を思い描き、それを実現するというのではなく、いまいる場所からどちらの方向に、どれだけ動くのか。そうした最小限のステップだけに集中し、その結果を確認し、それ以降の手続きを調整する。こうしたシンプルな手順を積み重ねることで、何らかの描像が姿を表すのだ。
とりあえず手をつけることができ、そしてささやかながらその結果を手にすることができる。これだけでも、いかにもピアジェ的な、段階的な発達を意識した、ユニークなコンピューター言語であることがわかるだろう。
ところでパパートは、LOGOという環境を考える際、一つの理想となるモデルを思い浮かべている。きっかけは、ひと夏のブラジルでの経験だった。彼の著書『マインド・ストーム 子供たち、コンピュータ、力強いアイデア』に、「学ぶ社会というイメージ」と題された章がある(*1)。そこには、理想的な数学教育のあり方を検討することがその本の目的であることが、以下のような表現で綴られている。
「どのようにしたら、ブラジルのサンバ・スクールのような、現実性があり、社会的なまとまりがあり、初心者も専門家もみなが学べるような環境のなかで、数学を学ぶことができるのだろうか」
彼が目指したのはサンバ・スクールだった。リオ・デ・ジャネイロ、その地においては、経済的な充足以上に、12時間にわたって路上で繰り広げられる唄と踊り、衣装と飾り付けによる演劇的饗宴、カーニバルこそが重要な意味を持つ。その成功のために、サンバ・スクールに老若男女が集い、知恵や技能を伝達し、パフォーマンスを設計し、そしてそれを仕上げるために個々の動きを磨き上げていく。このある種のサロン、アソシエーションでは、初心者から熟練者まで、年若いものから、身体が思うように言うことをきかなくなりつつある年齢の人までが、夜な夜な集い、踊るのだが、ただそれだけでもなく、飲んだり食べたりしたり、談笑したりゲームに興じたりしながら、とにかく共に過ごすのだ。
熟練者たちは、踊りを教えるなかで、目覚ましい習得に驚かされることもあれば、簡単な仕草の実現さえ困難な状況に直面することで、技能の伝承や、知識の言語化のあり方について学ぶことになる。いまではそれを実演することは叶わなくなってしまったが、けれども長い年月それを踊り、目にしてきた年配の人たちは、自分たちの審美眼を厳しく注ぐと共に、粗削りではあるものの、かつては想像することもできなかったような、奇抜で、新鮮な動きを見せつけられて、目を丸くさせられることになる。年若いものたちも、地域の歴史や民間伝承など、自分たちの知らなかった世界に驚かせられながら、けれども逆に、そうしたものを、どうしたら今日の世界において説得力を持たせることができるのか、その更新を提案したりもする。
そうつまり、そこでは誰もが教え、そして学ぶのだ。パパートの言う、「みなが学べるような環境」がそこにはあるのだ。いわゆる制度化された教育の外側にありながら、サンバ・スクールは、教え、伝達し、そして新たなものを創造するという、教育の場としての役割を十二分以上に果たしている。パパートは、それを教育の場で、とりわけ数学教育の場で、どのようにしたら実現できるかということに心を砕いたのだ。
理想としてのアソシーエーション
リオ・デ・ジャネイロではないものの、パパートの言っていることを確認した経験がある。ブラジルの元宗主国、ポルトガルの首都リスボンでのことだ。
リスボンでは、町中で鰯が焼かれる初夏の一日、聖アントニオ祭、通称サントスの日、街の目抜き通り、リベルダーデ大通りを、小街区ごとの工夫を凝らした出しものが練り歩き、その技と優美さ、装飾やストーリーを競い合う。リオのカーニバルのような、突き抜けた陽気な印象こそないものの、そこには、紛れもなく同質なものがある。
リスボン大学で教える機会に恵まれ、その街の下町、アルファマの、聖ヴィセンテ地区に一年間住んでいた時のことである。ちょうど部屋の窓から、路面電車の線路を挟んで反対側に、その地区のアソシエーションを見下ろすことができた。最初は何のための施設なのかわからなかったのだが、徐々にそこが、パパートの言うサンバ・スクールのような場所だということがわかってきた。
週末になると、看板も何もないそこに、老若男女が集まり、何やら楽しそうな催しが行われている。ビールの小瓶を手にした青年たちが、建物の前のちょっとした石畳の広場にプラスチック製のビーチ・チェアを持ち出し、額をくっつけるようにして何やら話し込んでいる。でっぷりとお腹の突き出た中年の男が彼らに話しかけ、破顔一笑。あるいは、同年代の娘が近づいてきて、軽く挨拶を交わしただけで離れていくのだが、青年たちは気になる様子でずっと彼女の背中を目で追っている。そんな彼らの傍に、いつの間に忍び寄ったのか、高齢の男性が杖を突きながらやってきて、何やら冷かすような言葉を投げかけて、若年者をからかっている。やがて、祭りが近くなってくると、その広場に、鮮やかな飾り付けが仮置きされるようになり、日毎にその数が増えていく。忙しい作業の合間をぬっての息抜きなのか、週末には、これほど多くの人が出入りしていたのかと驚くような数の人々が広場に溢れ出て、バーベキューに興じたりしていた。
いよいよ祭り当日になると、もちろんこちらも街に繰り出さなくてはならないから、そのすべてを見届けたわけではないのだが、朝早い時刻には、飾り付けと共に、パレードのために着飾った女や男が、賑やかにそこから出発していくのを見送ることができた。また夕方に部屋に戻ってみると、大役を終えた踊り手たちが、広場で寛いでいる様子も確認することができた。アルコールを手にしたり、得意げに煙草の煙を空に向けて吐き出したり、彼女や彼らは果たして望んでいたような結果を手にすることができたのだろうか。
規模こそ違うものの、おそらくその場所でも、サンバ・スクールと同じようなやりとりが、日々、行われていたはずなのだ。リスボンには、こうしたパレードのためのアソシエーション以外にも、様々なアソシエーションがある。サッカー・クラブのためのものだったり、地域振興のものだったり、映画など特定の文化のためのものもある。
そうしたアソシエーションのなかには、一般に門戸を開いているところもあり、行きつけにしているところもいくつかあった。内部の様子は、想像とそれほど違わないもので、あらゆる立場の人たちが集い、おしゃべりし、ビッカ(エスプレッソ)やビール、ワインを飲んだり、甘いお菓子を頬張ったりしている。ビリヤードに興じているものもいれば、図書室で調べものをしたり、場所によってはダンスホールがあり、踊っている人もいる。そこでは、スタッフと来訪者とを見分けることも困難で、客だと思っていた人が、カウンターに入って飲みものを用意してくれたりする。また、そうしたアソシエーションの多くは、これとわかるような看板を出していることがないため、誰かに連れていってもらわなければ入れない雰囲気なのだが、一度勝手がわかってしまえば、観光客で混雑するカフェや食堂よりも、よっぽど快適な場所のため足繁く通うことになる。
そうした環境での教育が可能なのだとすれば、もちろんそれはトップダウンな伝達を基軸とするものではなく、フラットなコミュニケーションに基づくものになるはずだ。誰もが教え、学ぶ。そしていつまでも、継続して、学び続ける。言い古されてきたこうした表現が、そこでは実現できているはずなのだ。
ラーニングの脆さ
パパートの姿勢は、アートにおける教育、ラーニングを考える際にも指針になる。いや、パパートというよりは、サンバ・スクールと言った方が適切だろうか。アートのためのサンバ・スクール。まずはその響きだけで、美術館などが催すエデュケーション・プログラムの堅苦しさが払拭されている。
パパートの、そしてサンバ・スクールの核になる部分は「みなが学べる」という部分であることは確認するまでもないだろう。教えることよりも、学ぶことが強調されている、その意味は重く受け止める必要がある。アートにおける教育プログラムの多くは、こうした印象とはかけ離れている。また、ラーニングを標榜するプログラムの多くも、ラーニングと教えることを混同することで、サンバ・スクールのような印象を手にすることができていない。
ラーニングという言葉そのものを用いているプログラムは珍しくないが、意識的にその言葉の意味を汲み取ろうとしている企画者の一人は、今回の「あいち2022」のディレクターを務めた片岡真実だろう。彼女は、本務先の森美術館でも、ラーニング・プログラムに取り組んでいる。しかしその彼女でさえ、ラーニングという言葉の持つ深みを完璧に掬い上げることができているかといえば疑問が残る。
例えば、ラーニング・プログラムのなかで、先に触れた対話型鑑賞を導入していることも、学びの持つ深みに対する慎重さを欠いているように思われる。対話型鑑賞は、どれだけ工夫を凝らしてみたところで、サンバ・スクール的な、誰もが等しく学ぶことのできる環境の必要条件でもある、フラットネスを手にすることができない。
対話型鑑賞に対するのと同じような疑問は、森美術館のラーニングを説明するテキストからも読み取ることができる。「さまざまなアーティストや作品を、その背景にある歴史的、政治的、社会的、文化的な文脈とともに理解していきたい」というステートメントは(*2)、一見するとすべての人の学びを誘導しているようにも思えるが、肝心のアーティストを学ぶことのできる主体の枠外へ押しやってしまっている。誰もが学ぶというその対象には、当然のことながら、アーティストも、ディレクターやキュレーターも含まれていなくてはならない。
また、理解するという言葉にも首を傾げたくなる。そもそもその対象は、理解可能という枠組みに回収することができるものなのだろうか。あるいは、使い古されている理解という言葉が、金融資本主義的なシニフィアンの生産を意味してしまうことに対する危惧はないのだろうか。
森美術館のラーニングに対する考え方を敷衍したと思われる「あいち2022」のラーニングにも、気になる記述がある。「アートは一部の愛好家のためのものではなく、すべての人がそれぞれのやり方で楽しみ享受するもの」とあるが(*3)、ここでは、エーコの言う享受者の立場が強調され過ぎていて、すべての人が生産者であるという、アマンダ・クーマラスワミ、ヨゼフ・ボイスらの努力は、どうやら実を結んでいないようだ。あるいは、生産もまた享受の一形態に過ぎないと言いたいのだろうか。そうでない限り、すべての人を等しく捉えようとする努力は認められるものの、受動的な立場を強調することで、何か巧みに主体性を奪おうとしているのではないかと勘繰ってしまう。
また具体的なプログラムに関しても、学ぶことと教えることを混同しているように思えるものが少なくない。誰もが学ぶのではなく、特定の誰かが学ぶために、特定の誰かがありがたく啓蒙を施す。もちろん、そうしたことがそのまま謳われているわけではないが、学ぶことの主体性に注意する立場に立てば、危惧を抱かないわけにはいかない表現が散見される。
こうした、ラーニングと、ティーチングやエデュケーションとの混同は、ラーニング・プログラムを実現する際の大きな問題の一つでもある。その場所で誰もが等しく学ぶことができているのか。誰もが、主体性を汚されることなく、参加することができているのか。ラーニングという言葉の扱いにも、ある意味での慎重さが必要なのだ。
ステートメントだけで判断するのは危険だが、ICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート)のラーニングのステートメントは、その辺りの言葉遣いにもう少し気を配っている。そこでは、ラーニング・プログラムを、「来場者との議論、実験、創造、交流を促進」するものとして位置づけ、トークやイヴェント、ワークショップを通じて、「来場者や観客を創造的なプロセスに誘い」、「来場者の、現代のアートや実践への関与を深化」させると謳われている(*4)。
少なくともこうした表現であれば、森美術館や「あいち2022」のステートメントが抱かせる危惧は薄らいでいく。もちろん、実態がどうであるかは別である。けれども、こうした言葉遣いの些細な変化が、実際の力の行使に大きく影響することは、同様の問題を繰り返し検討してきたフェミニズムを通して学んできたはずではなかっただろうか。言葉への配慮は、決してフェミニズムに紐づけられた定型の戦略というわけではない。それは、他の分野に応用されることで、そのあり方自体の更新に反映されることも視野に入れていなくてはならない。そうあることこそが、言葉への配慮が目指すものでもあるはずだ。
ラーニングは、主体性と継続的な時間を可能にする重要なキーワードであるのかもしれない。けれどもそれは、容易にその内容を、反極のものにすり換えられてしまう脆さを抱えてもいる。そうした問題を乗り越えるための努力は、まだまだ十分ではない。
サイレント大学という試み
ICAのラーニングが、もしその文言通りの実践が行われているのだとすれば、ひょっとしたらそれは、ある意味でサンバ・スクール的なものになっているのかもしれない。ICAでの実際がどのようなものなのか調べることはできていないが、その宣言と同質なものを感じさせるアートの活動はすでにいくつか実践されている。
クルド系のアーティスト、アーメット・オグートによって立ち上げられたサイレント大学はそうしたものの一つだ。難民や亡命希望者、移民たちのための知識交換プラットフォームと位置付けられたそれは、様々な理由で、母国で受けた専門的あるいは学術的な訓練を活かすことができないでいる移住者、あるいは移住希望者が、移住先の人々と共創的に問題解決を図ろうとする試みだ。
オグートは、2012年のテートでの一年間の滞在プログラムの期間中に、テートの移民資源センター、デルフィナ財団と協力して、このプロジェクトを立ち上げている。デルフィナ財団は、スペインの複合企業アクシオナの創設者を父に持つデルフィナ・エントレカナーレスによって2007年に設立された非営利の団体で、その前身は、アーティストに無料でスタジオや関連施設を貸し出すデルフィナ・スタジオ・トラストという活動だ。1988年に始まったこのプログラムには、トーマス・デマンドやトモコ・タカハシなど、著名なアーティストも数多く関わっている。
しかし、デルフィナの支援活動は、さらに遡ることができることを最近になって知ることができた。1970年代にはすでに、自身の所有する農場をスタジオとしてミュージシャンに貸し出していたのだ。彼女の友人で、転落事故で脊椎損傷し、車椅子での活動に取り組み始めたばかりのロバート・ワイアットもその一人だった。1974年に発表された彼の最初のソロアルバム、『ロック・ボトム』には、彼女のスタジオの名前と共に、ワイアットが音を奏でるために利用した、彼女のワイン・グラスやトレイまでがクレジットされている。残念ながら、この生粋のパトロン、デルフィナは昨年亡くなってしまったのだが、彼女の名を冠した財団は、そうした彼女の支援活動を集約したものなのだ。
オグートのプログラムは、ロンドンに始まり、アンマン、アテネ、ハンブルグ、ルール、ストックホルムに支部を展開するなど、デルフィナ財団を象徴する活動の一つになっている。実際に活用することのできない専門的あるいは学術的なスキルを再活性化するために、知識交換を基軸として、カウンセリングや通訳・翻訳、異文化交流、ネットワーキングなどを展開するというプログラムは、移住者はもちろんだが、受け入れる側に依るところも大きく、両者はともに、立場を超えて問題や知識を共有し、学ぶことが要求される。またその活動は、明確なゴールらしきものがあるわけではなく、一つの事例の解決で終わるものでもなく、継続的に生起する問題に対して、継続的に対処することこそが求められている。そこでの学びも、また継続的でなくてはならないのだ。
またここでは、アーティスト、オグートのプロジェクトとして紹介してきたが、そのことに対しても補足しておきたい。オグートは、キュレーターであり劇作家でもあるフロリアン・マルツァッハーとの対話のなかで、確かに自身は招待作家であり、共同コーディネーターの一人ではあるが、できるだけ速やかに、通常の構成員の一人に、ゲストの一人になりたいのだと語っている(*5)。これは、設計したり指揮したりする人が、平等な平滑性を目指そうとするときに抱えざるをえないディレンマと言えるだろう。オグート自身、そのことを意識しているということを付け加えておく。
マニフェスタ、失敗するための、そして立ち上がるための
芸術分野の時間軸を断続的なものにしている要因の一つでもある国際展にも、サイレント大学同様の継続を意識した取り組みが見られるようになってきた。その一つは、ヨーロッパの都市を移動しつつノマド的に展開するビエンナーレ、マニフェスタだろう。
1996年のロッテルダム以降、ルクセンブルク、リュブリヤナ、フランクフルト、サン・セバスチャン……、そして昨年のプリシュティナと、これまでに14回開催されてきたこのビエンナーレは、毎回、異なるキュレーターを迎えていることに加え、それぞれ異なる地理的、文化的状況を持つヨーロッパの都市を移動しているということもあり、継続性よりも分断されたものに、断続的なものの積層に見えるかもしれない。けれども、異なる地理的、文化的環境での開催は、それゆえに継承すべきものを強く意識させることになり、むしろ固定された場所で開催される国際展よりも、一貫した連続性があるように感じられる。マニフェスタは、創設ディレクター、ヘドウィッグ・フィヘンを中心としたチームによる指揮のもと、毎回異なる体制で運営されているが、フィヘン自身もそのことを意識していて、開放性、協働、知識交換の継続によって、継続性を確保することの重要性を唱えている(*6)。
そうしたマニフェスタの意識が明確に現れたものとして、残念ながら開催直前でキャンセルされることになった2006年のマニフェスタ6をあげることができるだろう。マニフェスタ6は、キプロスの首都、ニコシアで開催が予定されていたが、開幕3ヶ月前に突然キャンセルが発表されている。
開催が予定されていたニコシアは、ベルリンの壁の崩壊後、地球上にただ一つ残された分断都市というありがたくない名称で語られる街だ。地中海の東のはずれに位置するキプロスは、交通の要衝ということもあり、中世以降、ヴェネチア共和国、オスマン帝国、イギリスと、統治権が目まぐるしく移っている。第二次世界大戦後、イギリスからの独立には成功するものの、ギリシア系の住民とトルコ系の住民との対立は根深く、クーデター鎮圧を口実にしたトルコ軍の介入以降、分断された状況に置かれている。南西部のいわゆるキプロスはEUの加盟国で、トルコを除く国連の加盟国の多くが承認しおり、これに対し、北東部の北キプロス・トルコ共和国はトルコだけが国家として認めている。
またそうしたことに加えて、イギリスが統治していた時期に建設された軍事基地がそのまま残っていることも状況を複雑にしている。イギリス軍基地の存在は、複数の飛び地を生むことになり、結果として国境線は複雑を極めたものになっている。また、南北の境界はグリーンラインによって定められているが、その両側は緩衝地帯として国連軍によって管理されている。首都ニコシアもグリーンラインで分割されていて、マニフェスタ6は、主に南ニコシア側で行われる予定だったが、一部は北側でも実施されることになっていた。
開幕直前のキャンセルの理由はいまだにはっきりとしていないが、名目上は契約違反が理由で、キプロスのニコシア市当局から、突然、契約解除の通告を言い渡されている。推測の域を出るものではないが、キプロスにとって、北キプロス・トルコ共和国管轄下のニコシア側での活動は、そのまま国家としての承認に結びつく恐れがあり、それを危惧して牽制したというあたりが、不幸な契約解除の理由だろう。
キャンセルとなってしまったものが、どのようなものであったか推測することは難しいが、残されている『アート・スクールのための覚書(Notes for an Art School)』と題された趣意書はその手がかりを与えてくれる(*7)。3人のキュレーターの一人、カイロ出身のマイ・アブ・エルダハブのテキストによれば、ニコシアのようなデリケートな場所では、「傲慢な侵入者」ではなく「謙虚な訪問者」としてビエンナーレを実施することが重要であると述べられていて、必ずしも政情を挑発するような意図はなかったことがわかる。
また、参加する予定だったオルタナティヴ・スクールの一つに、リスボンを拠点とするMaumausがあったのだが、主宰するドイツ人のキュレーター、ヨルゲン・ボックが筆者の友人でもあったことから、彼らの日頃の活動から、マニフェスタ6を想像してみることもできなくはなかった。作品を期間限定で貸与し、その間の展示借用料をドネーションにあてるなど、運営形態にも工夫を凝らすMaumausは、大学院相当の美術学校として、規制の枠にとらわれない独自のカリキュラムを実施することで知られている。マニフェスタ6も、先の趣意書によれば、多様化する文化の問題を議論するための、期間限定の大学院レヴェルの美術学校としてデザインされていた。名称もそれを反映し、マニフェスタ6ではなく、マニフェスタ6スクールとなるはずだった。つまり、アーティストが作品をインストールしてそれで終わりというのではなく、開催期間中の絶え間ない運動、実践こそが目論まれていたのだ。
しかもその運動、実践にも、従来の権威や圧力に陥らないための様々な工夫がなされていたらしい。先述したエルダハブは、同じテキストの最後にこう記している。「マニフェスタ6スクールはしなやかに転び、立ち上がり、新たな道を歩き始めるチャンスなのだ。それこそが、わたしたちにとって必要な教育なのかもしれない」。彼女は、繰り返しそれ以前にも失敗することの重要性を問いかけている。教育の場が、成功し、確立されたものを伝達することを止め、つまずき、新たな試みを行うための場であることを意識する時、そこは、それまでの上位下達の固い殻を破り、教える側も学ぶ側も、等しい立場で参加することのできる、実験のための空間へとその性質を変化させることになるはずだ。
またさらにエルダハブは、マニフェスタの性質を、「いわゆる真空パックされた商品を扱うのではなく、新しい種を蒔くことを試みる」と述べてもいる。この表現からも、ある意味での持続する時間が凝視められていることをうかがうことができるだろう。蒔かれた種には、育て、生育する時間が必要なのだ(*8)。完成品の陳列棚としての展示ではなく、未完成なモデルの並ぶ作業棚。今回の「あいち2022」の山本高之のディレクションするラーニング・エリアにも見られたそうした性質を、より大規模に、正面から取り組もうとしていたということだろう。
主体的な実践を継続するために
継続的な時間、主体性、図書館、サンバ・スクールと、とりとめない話題を辿ってきた。これらに一貫しているものは何かと問われると、心もとないのだが、ここでの道行の発端にあった、アートの時間軸が、断続的に生起する展示や国際展、イヴェントによって形作られていることに対する違和感や、またそのことと無縁ではない、来場者や参加者の主体性が人知れず薄められているのではないかという疑義を、いま一度、確認しておきたい。
時間軸のあり方は、同じような公共施設である図書館の持つ継続性とは対照的で、その違いは、閲覧室という施設の名称にまで浸透していた。また、図書館では強く維持されていると感じられる主体性が、美術館では頼りなく奪われているという印象も無視できなかった。図書館のアクターは、どのような目的でそこに向かうにせよ、そこに出かけていく人にあるのに対し、美術館のアクターは、あくまでも展示作品の制作者や展示の企画者、あるいは作品そのものにあるように感じられる。どれだけ相互作用を意図した企画が組まれた場合でも、来場者の主体性は、どこか弱々とした、希薄なもののようになってしまうのだ。
こうした両者の相違は、突き詰めていけば、「教える」ことと「学ぶ」ことの違いというように要約することができそうなのだが、もしそうであるならば、そのこともラーニング・プログラムの重要性を裏付ける要因の一つであると言えるだろう。しかし、「教える」ことと「学ぶ」ことに強い結びつきがあるのも事実で、しかもそれらを包摂する教育という言葉も事態を複雑にしてしまう。これらの要素を、完全に解きほぐすことができず、複雑にもつれ合っている状態は、様々な問題や誤解を生み出すことになる。学ぶ、ラーニングに対して、教育的なヒエラルキーや、主体性の収奪が密輸入されることもそうしたものの一つだろう。
また、今日のラーニング・プログラムの多くが、教えることや教育と混濁し、その都度都合のいい要素だけを利用しようとしてきたということもある。そうした姿勢は、本来のラーニングが湛えているはずの、継続的な時間性や、来場者の主体性を実現する有意味な可能性を、遠ざけ、台無しにしてしまう要因でもある。
こうした困難な状況のなかで、学ぶということに関しては、ユニークなコンピューター教育を実践してきたパパートの姿勢が手がかりを与えてくれた。なかでも、彼が理想としたサンバ・スクールは、ラーニング・プログラムの目指すべき姿を垣間見せてくれているように思われた。もちろん、サンバ・スクールそのものをアートの世界で実現することは困難なのかもしれないが、そのあり方を目指し、可能なものを採り入れることを試みてみることは無駄なことではないはずだ。
サイレント大学やマニフェスタ6スクールのような実践には、そうした理想に近づこうとする努力を感じることができる。両者には、乱暴過ぎる要約を許してもらえれば、学ぶという実践を伴う継続的な時間や、そうした実践を担うことになるはずの主体性が、しっかりと意図されているという印象がある。
持続的な時間の流れと、誰もが主体的であるという環境は、当然そう容易く実現できるものではない。けれども、美術というこれまで断続的なかたちで時間軸を形成してきた世界において、そうした環境は、今後ますます重要性を増していくことになるはずだ。そしてそれは、アーティストやキュレーターなどの特定のアクターの主体性ばかりを重視し、来場者や参加者の主体性を巧みに収奪してきた世界において、すべての人の主体性のためのプラットフォームとなる可能性を秘めているはずなのだ。
その実現のためにも、いまはまだ不十分なかたちではあるかもしれないが、ラーニングという手がかりを更新していくことが求められている。今回の「あいち2022」のラーニング・プログラムは、まだまだサテライト・イヴェント的な扱いを受けていたのかもしれない。けれどもそこには、心もとないものではあるものの、確かに継続的な時間が流れていた。それは、マニフェスタ6スクールのエルダハブの言葉に倣えば、しなやかに転ぶための、そして立ち上がり、新しい道を歩み始めるための、チャンスなのかもしれないということになる。
ラーニングの真意を理解し、それを深化させることによって、美術館や国際展というもののあり方自体はもちろん、美術における意識のあり方そのものが大きく変わることもありえないことではない。公共の機関が芸術と関わりを持つあり方は、継続的な時間と、参加者の主体性を、どのように実現するかということにかかっている。
継続的な時間性は、マニフェスタに見られるように、断続的なイヴェントにおいても手にすることができる。毎回、キュレーターが異なるばかりでなく、開催地そのものが変更されるノマド的ビエンナーレ、マニフェスタにとっては、継続性を意識することは他の国際展以上に重要な意味を持っていた。そのため、創設ディレクターのフィヘンが述べるように、開放性、協働、知識交換における継続性を強調する必要があったのだ。けれども、こうした努力は、同じ地域で開催される国際展にとっても必要なことに違いない。
しかしその意味では、今回の「あいち2022」には失望せざるを得なかった。2019年の「あいちトリエンナーレ」の際の、表現の不自由展を巡る問題を受けて、とりあえず開催自体を目指したと思われる今回のディレクションは、理解できないものではなかった。けれども同時に、その問題に対する知識や情報の交換のための機会が、一切設けられていないことに対しては首を傾げざるをえなかった。多くの人が、そうした出来事を知りつつ、それに対してどういうかたちで取り組んでいるのか、興味を抱きつつ訪れていたはずだ。けれどもおかしなことに、むしろ芸術祭の内部では、関連する情報は希薄になり、ついには完全に滅菌処理されたような状態に成り果てていた。
確かに、正面からその問題を採り上げることはできなかったのかもしれない。けれども、過去を想起するための資料展示のようなかたちで、アウトラインを示す程度のことは可能だったのではないだろうか。こうしたあり方は、戦時下の行為を問うことなく、歩を進めてきた戦後のこの国の美術の姿を象徴している。自身の問題に完全に無視を決め込む姿勢のままでは、どのような有意味な社会的な提言も意味をなさない。若鷲のみ魂にさゝぐと付記した詩を綴り、若者たちを戦場に駆り立てた美術評論家を、シュールレアリスムの紹介者としてだけ採り上げてきた過去までが蘇ってくる。問題に対する判断は留保するとしても、ことの成り行きを示す最低限の情報だけでも、共有できるようにしておく必要はなかったのだろうか。
また、もちろんこれはある意味で倫理的な問題なのだが、同時に、美術の世界における継続性の問題でもあることに注意しておきたい。そうした継続性抜きには、どのようなラーニングも付け焼き刃のものにしかなりえない。悩ましいのは、そうした継続性の重要さを示すことができるのも、おそらくまたラーニングに期待されている役割であることだ。そうつまり、ラーニングは、いまはまだ、こうした苦境のなかでもがいているのだ。