LEARNINGラーニング
スクール・プログラム
教職員や美術教育関係者へ向けて、今後の教育活動の参考としてもらうことを目的に、教職員に向けた「サマー・スクール」を実施しました。会期中には未来のラーニング・プログラムについて共に考えるプログラムや、地域の教育機関との連携を図り、学校向け団体鑑賞プログラムも開催しました。
論考
「芸術祭で学べる重要なこととそれを実現するために必要なこと」
神野真吾(千葉大学准教授、角川武蔵野ミュージアム アート部門ディレクター)
美術と教育はあまり相性がよくない。そもそも美術自体が明瞭に「わかった!」と言えるようなものではなく、さらにはその内容を今なお大きく変化させ続けているので、教えることは前提として難しいことと言えるだろう。一方で、制作活動の時間さえ確保して自由に表現活動をさせれば良いのだから、美術の教育はそんなに難しくはないという立場もなくはない。その場合、出来上がった作品の出来栄えを評価すれば良く、評価だってそんなに難しくはないということになる。
対照的な立場を示してみたが、後者は、学校教育の美術科が長らく保持していた態度であるように思う。もちろん、個々の教員を見れば、そうでない教育も行われてきたが、大勢はそうだと言わざるを得ない。実際のところ、絵を描く教科くらいにしか多くの人たちには思われていないので、数十年前と同じ内容の授業をしていても誰にも咎められることはない。一般的な絵とか彫刻とかにカテゴライズ可能で、きれいなものが再生産される場として美術教育の場は設定されてきたと言える。また、普遍美とか、人生は短く芸術は長いとか、しばしば耳にするけれど、本当は良くはわからない言葉も、そういう変化のなさを肯定してきたのだろう。美術には普遍的な価値があるということにしてしまえば、それを教える教育もまた普遍的なはずで変わりようがないのだ、という話は一応筋が通っている。
一般的に美しいとか、これが美術だよねと思われているものを作らせること(あえて教えるとは書かない)が「普遍的」な美術の教育であるなら、「あいちトリエンナーレ2019」で起こったことは間違っていなかったことになるだろう。多くの人が美術だと思うようなきれいな絵や彫刻が並べられていない展示が、多くの人を戸惑わせることは当然と言えば当然だ。もちろん程度の差はある。自分の考える美術ではなかったとしても、それを引きずり降ろし、毀損しようというアクションを起こすまでするかどうかは、寛容性の問題である。ただ、そこに絶対的な価値として、普遍であるとか伝統であるとかが持ち出されてしまうと、選択の余地はなくなり、寛容性が発揮される余地はほとんどなくなってしまう。それがあの騒動の背景にあるものだと私は考えている。そこで私たちが問わねばならないのは、なぜ芸術祭は多くの人たちが美術だと思うものを展示していないのか?ということではないだろうか。そのことについて真摯に向き合うことが求められている。
19世紀後半から美術は大きくその姿を変えてきた。印象派に端を発する様式の爆発的な展開は、色と形を美術の本質と考えて、その他のものを排除し、そのなかで新しさを競っていくことへと至る。つまり、色と形が主題そのものになり、その他のものの影響を排した自律的なあり方が理想とされたのだ。「色と形」をアイデンティティとする現行の美術科・図画工作科は、この立場を曖昧かつ矛盾をはらみつつ踏襲していると言える。
しかし美術の歴史はそこに止まってはいない。色と形の追求は主に抽象として展開されていくが、様々なことがやり尽くされ袋小路に至り、美術の本質追求のゲームは成り立たなくなっていく。そうした状況で、それとは異なる動きが生じる。その一つは、過去の様式を引用して自由に表現に取り組む態度、もう一つは主題を身近なものや社会のなかに求める態度だ。前者はポストモダンの美術と呼ばれ、後者はポップアート、環境アート、近年のソーシャリィ・エンゲージド・.アートなど多岐にわたる。そして後者においては、美術館やギャラリーなどの美術の制度が支える展示空間のなかだけではなく、現実の社会のなかで作品の発表を行うことが増えてもいる。近年では、その主な現場の一つが芸術祭だと言うこともできる。芸術祭で私たちは、自分たちには見えていない現実の社会の別の側面と出会うことになるのだが、「色と形の教科」である美術・図工は、こうした変化に対応できていない。
ではなぜ色と形の心地よさを提供する美術ではなく、社会の様々な側面を可視化するような作品と出合わせようとするのだろうか。それを考える上で重要な観点の一つは、18世紀末頃の西欧に端を発した思想及び芸術動向であるロマン主義だと言える。ロマン主義は、個人の内面に重きを置き、そこから発した思想や感情を表すことにこそ人間の価値はあるとした。そしてこの考えは、今の美術のあり方の骨格を成すものとも言える。そうなると、世の中で認められていないものであったとしても、ある人のなかに表現する必然性があるならば、それは表現されるべきだということが前提となる。これは言うまでもなく表現の自由のことだ。
ただし、表現する自由があったとしても、それが全て評価されるわけでないのはもちろんのことだ。その表現に異論なく多くの人が共感することもあるかもしれないが、そうしたものは既に認められたものの再生産である可能性が高く、評価されることは少ない。キュレーターという展覧会企画の専門家が、今人々に見せるべき作品を、既存の作品表現と照らし合わせながら価値づけ、展示作品(作家)を選定している。その場合、展覧会の意図によっては、人々の規範的な美と相容れなかったとしても人々に見せるべき作品として、あえて展示がされることになる。
新しい美術表現に触れる機会を提供する芸術祭は、そういった意味で物議を醸す可能性を前提として有している。芸術家個人が世界のなかで感じ考えたことを独自の仕方で表現されたもの(作品)に向きあう場であるのだから、鑑賞する側と作品との間に違いやズレがあるのは当然のことだ。逆に言えば、それがない世界は全体主義である。われわれは全体主義の世界ではなく、多様な感じ方や考え方を尊重する社会に生きているはずであり、その違いやズレをどのように扱っていくのかという課題は、私たちの社会にとって根本的に重要なものであるはずだ。そう整理すると、新しい美術表現を鑑賞する体験を芸術祭が提供することは、実はとても重要な意味を含んでいる事がわかるはずだ。
行政が中心となり行われる芸術祭に求められるのは、そうした芸術祭の根底にある意義を確認し、市民に伝えていく努力だろう。既にわかりきった美しい絵や彫刻と出会うことへの期待が強いままの現状では、芸術祭の持つ社会的な意義は実現されないだろう。専門家としてのキュレーターもまた、どのような作品と出会わせるべきなのかを熟考すべきであろう。そして、そこで生じるだろう違いやズレを巡るどのような議論を建設的に生じさせられるのかも視野に入れ、企画を立案、実施せねばならない。
芸術祭を社会的に重要なものとするためには、冒頭に記した学校教育の美術にも大きな責任がある。自分が実感を持ってわかったことしか、人は教えることができない。まずは、新しい美術表現に触れ、自分の美術についての見方とのずれについて考え、様々な考えを持つ人たちとの間で議論をすることが、現場の教員たちには求められるだろう。そのなかで、自身の立ち位置を確認し、自分とは異なる見方や考え方があることを知り、自身の世界認識を更新していくことになる。そうした経験の価値を自ら実感していなければ、従来の色と形の美術から離脱することはできないだろう。そしてそれは芸術祭の限られた時間のなかでは果たされるはずもなく、常に持続的に行われるべきもののはずだ。むしろ芸術祭の期間よりも、日常のなかでの取り組みが決定的に大切なものとなるはずであり、そうした経験の場を芸術祭の主催者は持続的に提供し続けるべきだと考える。