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国際芸術祭あいち2025、テーマ:灰と薔薇のあいまに、会期:2025年9月13日(土)から11月30日(日)79日間、会場:愛知芸術文化センター/愛知県陶磁美術館/瀬戸市のまちなか国際芸術祭あいち2025、テーマ:灰と薔薇のあいまに、会期:2025年9月13日(土)から11月30日(日)79日間、会場:愛知芸術文化センター/愛知県陶磁美術館/瀬戸市のまちなか

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「あいち2025」ストーリーズ

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対談

フール・アル・カシミ(芸術監督) × 中村茜(パフォーミングアーツキュレーター)

  • インタビュー

──全体コンセプト「灰と薔薇のあいまに」への思いをお伺いできればと思います。

アル・カシミ
掲げたコンセプトはとても重いと言われますが、それは今の世界自体の空気の重さなのだと思います。「灰と薔薇」というアドニスの言葉を引用したのは、すごく詩的な表現だったからです。つまり過去には、環境と人間はいい関係を築くことができていたかもしれない。でも、それを現在は破壊し続けている。そして、すべてが破壊し尽くされた後でも、何か新しいものが生まれるんだということをアドニスは言っています。その点がすごく詩的ですよね。「あいま」というのは、現在のとても厳しい状況下において、その瞬間瞬間に、私たちはどう存在し得るのかという問題提起になると思いました。今回のテーマでは「人間と環境の関係」に焦点を当てていて、環境と共に生きているのか、あるいは対抗する形なのかという問題を扱っています。それは、パフォーミングアーツのプログラムも同じです。

例えば、ブラック・グレースは植民地主義や土地の支配の問題を扱っています。フォスタン・リニエクラは「restoration(返還)」について。つまり植民地化でいろいろなものが奪われてきて、それを返還するというプロセスを扱っています。また、セルマ&ソフィアン・ウィスィは人間と動物の関係、クォン・ビョンジュンは人間と環境との関係を深く見つめています。

中村
今回の作家選出にあたって国際的なプログラムは主にフール(・アル・カシミ)さん、日本やアジアの作家のリサーチは私が担当しました。テーマを日本やアジアに照らし合わせて考えてみた時に、日本やアジアという立場から自然や環境の破壊について考え、人間の存在を扱える作品について思いを巡らせました。

たとえば、メンバー全員が身体障がい者のパフォーマンス集団である態変は、人間の存在を自然の一部として捉え、優生思想や能力主義に抵抗する、身体そのものの価値を作品化しています。同時に、日本は帝国主義時代にはアジア各地に対する加害者側の立場であり、現在でも沖縄や北海道等を巡って複雑な問題を抱えています。そうした罪の意識やポストコロニアルな意識は、いまの日本では非常に曖昧に消費され続けていますが、その曖昧さを超えられるような表現を考えたいと思いました。また、今年は戦後80年ですが、破壊の象徴としての戦争を語る時、日本では歴史のなかのものとして教科書に載っているような存在になっています。でも、戦争は現在進行形で続いています。いかにして現在進行形の戦争と私たち日本人の間に対話を生み出せるのかも意識しました。

アル・カシミ
日本の記者会見で「日本には戦争はありませんからね」と言われて驚いたのを思い出しました。今、その時点ではなかったとしても過去の戦争は今の日本とつながっているはず。

中村
本当にそう思います。AKNプロジェクトが取り組んでいる『喜劇 人類館』も同じです。現在、大阪・関西万博が開催されていますが、1903年に同じ大阪で開催された万博(第5回内国勧業博覧会)で、アイヌや沖縄、朝鮮などを含む世界各地の人を展示する「学術人類館」が、抗議などの問題に発展したという「人類館事件」を機に書かれた戯曲がベースになっています。「人類館」という作品の誕生から40年余りが経ち、現代にとっていかにアクチュアルなものとして作品を提示できるか挑戦しています。

アル・カシミ
愛知万博(愛・地球博)から20年で、戦後80年。振り返るにはいい時期なのかもしれませんね。

──作家の選出理由についてお伺いしたいと思います。

アル・カシミ
まずは、オープニングを飾るブラック・グレース。2023年に私が『シャルジャ・ビエンナーレ』のキュレーターを務めた際にコミッションをお願いしました。主宰者のニール・イェレミアのインタビュー動画を見ていたら、「太平洋の島で起きている先住民の問題についてダンスで対抗しようとしている」というコメントがあったのですが、それは何なのだろう? と思いインスタグラムで連絡をしたのが最初です。話し合いをするなかで、その年のビエンナーレのテーマ「Thinking Historically in the Present(現在という時間の中で歴史的に考えること)」に対し、応答するような新作を作ることになりました。それが今回皆さんにご紹介する『Paradise Rumour(パラダイス・ルーモア)』です。この作品はポストコロニアリズム——ポストと言っていますが、今も終わっていませんからポストと言いたくない人もいますが——の歴史を今どう考えるかということについて扱っています。

芸術祭のエンディングを飾る、コンゴのアーティスト、フォスタン・リニエクラの『My body, my archive(マイ ボディ・マイ アーカイブ)』は、2017年にNYのメトロポリタン美術館(MET)のレジデンスで制作された作品『Banataba』から始まっています。METには植民地時代にさまざまな国から集められたものが収蔵されていて、そこには彼の先祖にまつわるものがたくさんありました。ほとんどが男性のものでした。彼はそのときに女性、特に彼の家族で亡くなってしまった女性たちに関係するものを選びました。この作品は、表象の問題も扱っているしMETのアーカイブという意味では「返還」の問題も関わってくると思いました。彼は「まだ書かれていない歴史を扱っている」と言っています。

アーカイブは書き残すものであるというのは西洋から押し付けられた概念です。植民地支配以前のコンゴでは、歴史は書かれるものではありませんでした。仮面や彫刻、物語といったようなさまざまな異なる形式で継承されてきました。また、フォスタンが自分の出身地を訪ねた際に、その土地で語り継がれている物語のほとんどが男性のものばかりで女性がまったく表象されていなかった。彼は村の彫刻家に、自分の家族の女性たち、祖母や母の彫刻の制作を依頼します。彼らの文化的なコンテクストのなかで彫刻を作るということは、亡くなったものに対して新たに命を注ぎ再生させる行為。歴史のなかで不在であった女性たちを生き返らせるために、彫刻を制作しています。

『My Bodie My Archive』では、アーカイブにはどんな方法があるのか、今また別の方法を探すことができるのだろうか、というアーカイブそのものについて疑問を投げ掛けます。そして、西洋から押し付けられたアーカイブは、どうやったら土地の人々のものになるのかという問いをも投げかけています。

歴史に遺されたものと
遺されなかったもの、両面から考える

──中村さんにお聞きします。アル・カシミ監督から何名か作家の紹介がありましたが、今回参加する日本の作家が抱える問題意識とつながっているようにも思います。

中村
今のお話はマユンキキが抱える問題意識につながってきます。共同体や文化が大事にしてきた言葉——それは書き言葉ではなく例えば彫刻や服飾や音楽が、(支配者側の)博物館に収められてしまっているという歴史。アイヌも同じように、和人により土地を奪われ、同化政策により言語や生活習慣、生業などの変更を余儀なくされた歴史がある。そんな歴史の中で彼女は、アイヌの女性だからこそ起こる“出来事”から着想を得て作品にしています。でも、一方で彼女は「自分が作品をつくらなくていい世の中になってほしい」という話をよくしています。

今回の作品で、これまで共演・共作を行なってきたメンバーとともにマユンキキ⁺として参加するマユンキキがテーマにしたのは、飯田線(旧三信鉄道)という鉄道と祖父の川村カ子トです。愛知県の豊橋から長野県の飯田方面まで続く長い鉄道ですが、史上最大の難所の一つと言われた山の険しい渓谷(天竜峡駅から三川河合駅まで)の測量を、彼女の祖父で旭川アイヌのリーダーでもあった川村カ子トが手がけました。それは非常に偉大な功績なんですが、近代化にはもちろん負の側面もつきまとっています。善いことと悪いことには連続性がありますよね。鉄道が開通することによって、人が住めるようになる。すると電気が必要で発電のためのダムができる。ダムをつくる裏側には強制労働をさせられた人たちがいて、そこには朝鮮からの労働者も多かった。そうした負の遺産にもきちんと目を向けていきたいとおっしゃっています。作品は、世代や地域を越えて分断したものを、新たに繋ぎなおすように創作され、美術とパフォーミングアーツの両方で発表します。美術はサウンドインスタレーション、パフォーマンスは音や影絵が織りなす舞台体験を予定しています。

アーカイブや記憶という意味ではAKNプロジェクトにも通ずると思いました。彼らは、沖縄が抱えている記憶を現代の人たちにどう継承していくかということを継続的に考えているコレクティブで、戯曲『人類館』の3回目のリクリエーションに挑みます。もともとの戯曲は故・知念正真が書いたものですが、今回は20代と40代という世代の異なる女性の視点で喜劇として作り直します。

先ほど「近代化の影響」という話が出ましたが、オル太の作品の重要なテーマになっています。今回芸術祭の会場にもなっている瀬戸は、1000年以上続くやきもの産業が、近代化を経て、形を変えながらも継続している土地です。瀬戸のやきものの近代化を支えた大きなエネルギー資源のひとつに石炭があります。そして、実はこれらの石炭の多くは、九州は筑豊の炭鉱で掘られたものでした。オル太の作品『Eternal Labor(エターナル・レイバー)』は、九州の筑豊、対馬、朝鮮半島に滞在し、炭鉱をはじめ近代化の歴史と現代へのつながりを掘り下げ、現代の女性の労働とも掛け合わせ、近代化の歴史を再解釈しています。

美術とパフォーマンス
表現ジャンルを横断する

──今回は両方に参加する作家が3組いて、どのようにジャンルを行き来するかについてはアル・カシミ監督のアイデアが活かされていると聞きました。その意図を教えてください。

アル・カシミ
それぞれの作家において、何故美術とパフォーマンスの両方に起用したかには違う理由があります。マユンキキは、彼女という存在をこの芸術祭を通して全体で感じられるようにしたかった。彼女が語る物語はすごく重要だと思うし、展示とパフォーマンスの双方から広く観客に届けたいと思いました。セルマ&ソフィアン・ウィスィは美術作家としては、ユネスコヘリテージにも登録されている、チュニジアのセジュナンという地域の女性が制作する陶磁の人形をテーマにした作品を制作しているので、瀬戸とつながるように思い起用しました。パフォーミングアーツでは、鳩とともにダンスを通じて、人間と動物の関係を問います。異なる媒体で、まったく違うアプローチをしている作家と言えます。

パレスチナの作家、バゼル・アッバス & ルアン・アブ=ラーメは、パフォーミングアーツの企画としてクラブイベントを予定していますが、普段、美術館には来ないストリートや音楽の客層、より若い層へリーチしたいと思い起用しました。このパフォーマンス体験をきっかけに、アートに興味を持って美術展に足を運んでもらえたらと思いプログラムしました。

中村
今年5月、シャルジャ・ビエンナーレに行ってきたのですが、パフォーマンスやサウンドと美術が共存しているのがすごくいいと思いました。近年、美術もパフォーマンスもお互いに領域が拡張していて、両者をオーバーラップさせたいというフールの思いがすごくよくわかりました。また、シャルジャではパレスチナからの表現というのが当たり前のように多面的にありました。日本にいると、パレスチナ=戦地というイメージがあって、それ以外のイメージはなかなか伝わってきません。芸術祭という場所で、作品を通じて人と人が出会い、対話が生まれることってすごく大事だなと。目下私たちはバゼル&ルアンの新作を制作中ですが、彼らの作品についてもう少しお聞かせください。

アル・カシミ
シャルジャにはパフォーマンスに特化したフェスティバルもあり、パフォーマンスシーンも盛んです。でも、私が芸術祭にキュレーターとして関わった時に、新たな挑戦として、別々にあるシーンをひとつのコンテクストの中でつなげてみたかった。それから、バゼル&ルアンは、今回だけではなくいつもインスタレーションの中にパフォーマンスを立ち上げる作品を制作しています。パレスチナで撮影した映像がプロジェクションされますが、その映像は色や歪み等さまざまな加工が加えられレイヤー化され、光や音、テキストとともに没入型の体験を作り出します。彼らはパレスチナがいかに支配され、土地が奪われているかという話ももちろんしますが、同時にパレスチナには今現在どういう人がいて、若い人たちは何を考えているのか、どんな音楽を聞いているのかという「今」を扱っています。彼らが映像で用いるテキストも非常に重要です。

──最後に、美術展の鑑賞にもつながるかとは思いますが、お二人にパフォーミングアーツの魅力をお聞きできればと思います。

アル・カシミ
美術とパフォーマンスというジャンルはどんどん拡張していますが、ライブのセッティングで作品を鑑賞するのは、やはり特別な体験です。まずは、観客がその場にいるということ。作品を観るというよりも、作品の一部として自分が存在することが、特別な体験として挙げられるのではないでしょうか。

中村
私も同じようなことを考えていました(笑)。少し言葉を変えて言いますね。私が最近よく使っている言葉に「他者の靴を履く」というものがあります。ブレイディみかこさんというイギリス・ブライトン在住の作家による『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文春文庫)からの引用なのですが、ここで話される「エンパシー」というのは、体の特性や文化、価値観の異なる相手を理解する知的能力のことで、感情的に共感する「シンパシー」とは異なり、大人になってからでも培うことができる能力なので、共生社会や教育の分野でも注目されています。芸術祭はアーティストの視点を通じて、既存の自分が持っている靴とは違ういろんな「靴」を履くことができる、それを楽しんでいただきたいと思います。