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国際芸術祭あいち2025、テーマ:灰と薔薇のあいまに、会期:2025年9月13日(土)から11月30日(日)79日間、会場:愛知芸術文化センター/愛知県陶磁美術館/瀬戸市のまちなか国際芸術祭あいち2025、テーマ:灰と薔薇のあいまに、会期:2025年9月13日(土)から11月30日(日)79日間、会場:愛知芸術文化センター/愛知県陶磁美術館/瀬戸市のまちなか

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喜劇『⼈類館』は何を笑うのか

林⽴騎 (翻訳者、演劇研究者)

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哲学者アンリ・ベルクソンの⼩著『笑い』によれば、笑いは「社会的意味」を持つものであって、私たちの社会をひとつの⾝体と考えるなら、その表⾯に存在する「こわばり」や「歪み」を笑いがしなやかにする、という。また、社会が⾃動的・機械的に繰り返す、いわば「操り⼈形」の仕組みを再現するとき、滑稽になり、喜劇になるとされる。そして笑いは、こうした歪みや⾃動現象の「矯正」につながる。喜劇とは、⾃由⾏動ではなく、⾃由⾏動に対する是正勧告であり、こわばりを持つ部分をよりしなやかな全体へと再適応させるというのである。

知念正真『⼈類館』に「喜劇」と付けたのは上演活動を続ける娘のあかねだが、この作品にはたしかに喜劇性がある。沖縄の歴史の様々な場⾯を時間と空間を越えて⾒せるなかで、現在まで繰り返されてきた規則と構造が反復されるのだ。正真⾃⾝も以下のように⾔う。

沖縄の歴史は、おおむね悲劇的⾊彩であやどられている。「琉球処分」以降は特にそうである。「悲劇の島」と呼ばれるゆえんであろう。にも関わらず、それらは客観的な眼で⾒れば、より喜劇的なのである。悲劇は覚めた視点で相対化することによって、喜劇たらしめることができるのだ。そして、現在特にそれが必要なのだと思う。「際限のないリフレイン」を断つ、新たなるドンデン返しのために。
(初演時のパンフレットより、1976年)

歴史の悲劇であり社会問題を、同時に喜劇として捉えることで、反復を断ち、変化につなげること。ひとつの状況を悲劇と喜劇の両⾯から⾒るような覚めた⼼の⼤きさと表現の底深さは、政治との関わりを避けられない現代芸術への要請でもあり続けているのではないか。

1903年の「⼈類館事件」を含めて、沖縄の歴史が沖縄の外で学ばれることはほとんどない。これも悲劇であり喜劇だろう。沖縄の歴史は12世紀から伝わり、1429年に琉球王国として統⼀。ヨーロッパから東アジアに植⺠地主義が進出するなか、1609年には薩摩藩による琉球侵攻を受け、⽇中両国と関係を結ぶ。明治維新後、1879年に琉球処分、沖縄県設置、⾸⾥城明け渡し。国王は城から追放され、450年続いた琉球王国は滅亡した。

アジア太平洋戦争では地上戦が戦われ、県⺠の4⼈にひとりが亡くなった。スパイとみなされた住⺠の処刑や強制集団死もあった。戦後、台湾や朝鮮半島とは違い、沖縄はアメリカ軍の統治下となり、1951年のサンフランシスコ平和条約後も⽶施政権下とされ、72年に⽇本に「復帰」した。「基地のない平和な島」を掲げたが、現在も⽇本の国⼟⾯積の0.6%の沖縄に在⽇⽶軍基地の約7割が集中している。年号や数字にあらわれない⼈びとの苦しみと悲しみが⼟地に重なり、沖縄島以外の多くの島々にも苦難が続いてきたことは⾔うまでもない。

ヨーロッパの植⺠地主義と近現代⽇本政治史の上に沖縄を巡る歴史が現在まで続いており、ゆえに今を⽣きる私たちは、それぞれの⽴場に応じた関係と責任を意識せずとも負っている。喜劇『⼈類館』を観るとは、同じ作品をあいだに置きながらも、それぞれの⽴場から異なる受け容れをすることで、個々の思考と⾏動につなげると同時に、⾃分の位置だからこそ⾒えてくる普遍性(他者に通じる部分)を、⽴場を超えて共有し合うことだろう。

ベルクソンによれば、笑いの⼿段は「繰り返し」「逆転」「交叉」である。歴史が繰り返すなか、『⼈類館』を巡る⽴場を交叉させれば、⾃⼰や社会関係や政治のあり⽅に逆転の可能性が⾒え、私(たち)は笑うことができるだろうか。そもそも滑稽で、喜劇的なのは、舞台上の場⾯か、舞台を⾒る私(たち)と社会か。それとも、私(たち)が笑おうと、笑うまいと、むしろ歴史の天使のような存在が新しい笑いを(⼤きくあるいはひそかに)笑い⾶ばすとき、よりしなやかで、歪みのない社会へと変化していくことができるのだろうか?

林⽴騎

(翻訳者、演劇研究者)

翻訳者、演劇研究者。現在、那覇⽂化芸術劇場なはーと企画制作グループ統括。訳書にエルフリーデ・イェリネク『光のない。[三部作]』、ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇はいかに政治的か?』(ともに⽩⽔社)。